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5・15事件(一海軍士官の青春) 21

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 4月 5日(木)20時33分36秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著


    第3章  東京軍法会議


   5 求  刑


 古賀君のいわゆるざん悔録といわれるものは、大略次の通りである。

 (一)吾人は小学校以来教育勅語はよくわかった積りでいたが、今回の事件を経てその意味が体験的にはじめてよくわかった。吾が国はそもそものはじめより皇室中心に一大家族として発達して来た国家である。従ってその間の関係は血縁の間柄であることともに、君臣の関係もまた本質的に一である。日本精神とは実にかかる関係から生れてくるものであり、教育勅語の教ゆるところである。思想政治経済をはじめ凡ゆる方面において、この日本精神を実践的に生かして行くは、吾々日本人の唯一の生き方である。

 (二)親子の関係は愛と理解を本質として、その間相互に対立的な何ものでもない。仮に不行跡な兄弟があり、子供があったとしてもこれを打倒排除しようというような破壊的な気持は起らない。すなわち家庭を貫く精神は大慈悲の心であり、破壊に非ずして創造である。破壊を説く者は日本精神を理解しないものである。

 (三)かくの如く考えて来て自己を省るに、果して自己は実践的に日本精神に生きて来たといい得るであろうか。口に誠を説くも、実践においてその異なるにおいては、身を以て不誠を説くものである。自己の過去を反省し、思うてここに到れば、背に冷汗の下るを覚える──鳴呼吾過てり。

 実践的生活の出来ない者がどうして陛下のよき赤子たり、よき同胞たることを主張する資格があるであろうか。吾々は真先に自己完成をやらねばならない。これがそのまま家庭の完成であり、日本の完成である。道は脚下に在る。教育等凡ゆる方面において腐敗堕落し、一刻を猶予せば亡国の外なきものと考え、一命を犠牲にして救国の大義に殉じようとして来たのであるが、今静かに考うれば、いずれも自己の体験によった現状認識ではなかった。況んや悪いものを破壊すれば書きものが出来るというような考えで今日に到ったことは、何とも申訳けない。破壊が根本的に日本精神に反するものなることは右の如くであるが、さらに破壊は人の心に対立的感情と憎悪とを植えつけ、社会に不安を呼び起すだけでこれによって社会に平和をもたらすことは出来るものではない。これではせっかく社会を救わんとして立ちながら、社会を毒することとなる。真に社会を救わんとする道は建設的努力の外にはない。建設的努力は決して観念的なものであってはならぬ。いかに完成された議論でも、結局議論としては一面観的たるものとなりがちであるのみならず、救わんとするものは現実に存する社会であるから、それが観念論的なものである限り社会を救う所以ではない。否、却ってその声によって社会不安を増すに役立つのみである。要するに今後吾々の行く道は大慈大悲の創造的努力の外にはなく、しかも遠きに道を求めず、現実に自己の生活の完成によって進むべきであると信ずる。これが日本人としての吾々の真の生き方である。

 八月二十八日定刻開廷。法廷には一万五千枚に上る予審調書がうずたかく積まれ、その後方にはピストルその他の武器をはじめ二百四点の証拠物件が箱や袋に入れて堆積されている。

 開廷とともに三上君起って、去る二十三日の公判で一もめした古賀君の──吾過てり、吾過てり──の手記につき発言を求め、二つの補足をしたいとて、

 三上「第一に日召に関する件、五・一五事件の首魁果して日召なるや。日召は断じて首魁にあらず。吾々も日召も同じ信念を以て同志一如の立場にある。彼は早く吾は遅く、その決行の時期において差異あるのみにして、私をして五・一五事件の首魁が何んであるかをいわしむるならば、首魁は被告全部である。昭和六年七月、私が運動の一員として参加せる当初より、私の秘めたる胸の中には日蓮のいわゆる──吾れ国の柱とならん──の境地と同じく──吾れ運動の首魁たらん──との決意に何ら動揺はなかった。第二に古賀の現在の心境に関する獄中手記は、人間古賀の気持から宗教心の発露であり、手記中の、吾れ過てり、の一句も決して過去の行動精神を全面的に否定するものでなく、日常生活に繰り返される一種の祈りである。吾吾はもちろんうぬぼれて志士と称し、国士として自ら任ずる如き名聞の徒ではない。吾々は断じて非合法直接行動のみを謳歌するものではない。ただ事件当時における国家の現状から、王政維新の唯一の方法は、捨石としての吾人の直接行動以外にないと確信してこの挙に出たもので、海軍軍人として軍紀の重きこと、日本国民として国法の重んずべきことは万々承知であります。──吾過てり──の獄中手記を以て吾々の心境を総括的に律せられることは、忍び難いことであります」

 と力強く主張し、さらに先に弁護士より申請した証人や、草刈少佐の遺書取寄せが却下となったことを不満として、

 三上「却下の理由は、この会議(ロンドン会議)そのものがあまりに国辱的だというにあるかも知れないが、将来を戒めるため、国家百年の大計のためには、ある程度の犠牲もまたやむを得ない。もし万一なお海軍の認識に欠くるものありとせば、吾々が五・一五事件において敢て執らなかった割腹を、私から彼らに要求したい。草刈少佐の迷える霊とともに吾々は彼らをにくむ」

 と一時間余の熱弁を結ぶ。

 高法務官この時厳然たる態度で、

 高「本件を審理するに当り、裁判長をはじめ裁判官一同が終始公明正大の精神で一貫していることは、特に言明する必要のないことである。これから証拠調べに入ります」 と証拠調べに移らんとすれば、塚崎弁護士再び古賀君の手記問題について裁判長に対して質問、さらに古賀君に対して手記作製の順序、大角海相が議会で同手記を朗読するまでの経過を質せば、

 古賀「原本は二百二十頁で、これは後になって心境の経過に過ぎないからと思って昨年六月七日一字もわからぬように破ってしまった。写は五十九頁、すなわち昨年一月六日までの手記から抜萃したもので、その後の百六十頁は現われていない。私は事件の計画者としての失敗、川崎長光を犬死せしめたこと、牧野をやらなかったこと、革命運動の矛盾観、その他過去の未熟と思うことを徹底的に反省してみようと思って書き始めたが、だんだん書くことが変って来たので引きさいたのです。昨年一月二十三日、刑務所長が借してくれというので貸してやると、そのまま法務局に出して各鎮守府の教育資料に印刷するとのことであったので、個人としては差支えないことを返事した。二月一日になって貸した部分は返って来たが、二月中旬東京地方裁判所の予審判事から取調べを受けた際、大角海相が帝国議会でこれを読み上げ、芝居じみたことをやったと聞かされ、いやしくも海軍大臣たるものがその性質をも確かめず、当人の了解をも得ずに軽卒に議会で読むとは怪しからぬと、内心憤りを感じました」

 と手記の発表の内幕をさらけ出す。

 高法務官再び証拠調べに移らんとすれば、今度は黒岩君起ち上り、

 黒岩「ロンドン条約に対する国民の疑惑は請訓実に海軍省が賛成し、軍令部が反対であり、海軍部内の財部派が条約賛成論者であったことから生ずる云々」

 と述べ立てれば、山岸君乗り出し、またもやロンドン条約問題を持ち出し、いちいち専門的意見をトウトウと述べ、あまりに機密に触れるので裁判長から小声で注意され、やっと戦術論を打ち切り、

 山岸「吾々は罪を軽くして下さいなどとはいわない。ただ吾々の行動を妄動だとされては死んだものも浮ばれない。古賀の変態的心境の手記を古賀の取調べの際に読まずして最後に読み上げ、全被告の現在の心境の如く取扱うに至っては沙汰の限りである。ここにも吾々の真意に対して圧迫が加わっている。忠臣草刈少佐を生かし海軍を刷新するのは、裁判長の忠誠心に待つ外はない。腹を切る術を知らずして未来の提督たらんと願うようなことがあってはならず、来るべき日米戦争に捨てらるべき命をこれに先だって捨て、以て国家刷新のため裁判長の英断をお願いするのであります」

 と。午前はこれで終り、休憩後、午後一時三十分再開。

 冒頭に塚崎弁護士起って検察官に疑議を質した後、清瀬弁護士の証拠提出に入り、第五十八議会の速記録──昭和五年四月二十六日の故浜口首相の答弁──その他を証拠として提出。同弁護士は先づ第五十八議会で故浜口首相が述べた──国防の責任は議会に向って政府が取る──の一言を取りだし、あるいは当時軍令部長たりし加藤寛治大将が文代議士に与えた文書を証拠として提出し、加藤大将が証人に立ったのと同意義を持つことを力説し、高法務官及び山本検察官と軍機問題につき応酬し、結局許されて、議会速記録を朗読。林弁護士起ち、第六十四議会における内田信也の質問、大角海相、荒木陸相の答弁を読みあげ、速記録を証拠に提出。さらに政党財閥特権階級の腐敗堕落を説明したいとて、牧野内府、徳川某氏主催の舞踏会、上海事変に対する外務省の態度等を論難した後、いわゆる宮内省怪文書、パリ不戦条約問題に関す頭山満翁の上奏文の写や、若槻礼次郎、永井柳太郎、五来素川及び院内第一線同盟等の所論としてだされた小冊子「ロンドン会議と統帥権問題」を提出。さらに反条約論としての「米国の脱帽」その他本多熊太郎氏や南郷次郎氏の著書数冊を提出し、却下となった本多、南郷両氏の証人訊問に代えると結んで、この日は遂に証拠調べに入らず、午後四時三分閉廷。

 翌二十九日定刻開廷。塚崎弁護士は被告らの事件決行の重大動機となっている農村の疲弊を立証するためと、昭和五年以来の農村の統計表を提出。稲本弁護士も農村の高等小学校に在学中の十三才の少女が同弁護士宛に出した減刑嘆願の手紙をはじめ、農村の一婦人が女手一つで減刑嘆願の署名を百四十名分も集め、被告の皆さんに麦湯でもあげて下さいと現金二円を贈って来た事実などを挙げて減刑の投書を提出。福田弁護士は全国の陸軍諸将星から来た減刑嘆願を提出、別に一万人の署名ある減刑嘆願書が弁護人の手許に来ていることを述べ、九時三十分ようやく証拠調べに移る。

 事件当日麹町憲兵分隊に於ける決行組各被告の自首調書、首相官邸実地検証調書、犬養首相死体検案書、首相官邸の検証図その他襲撃個所の検証調書、その他一切の事件に関する証拠物件を証拠として採用し、午前は終り。

 午後一時再開。予審書の証拠調べに入り、川崎長光の調書内容読聞けのところでは、川崎が西田に続けさまにピストルを六発射って二階を駆け下りようとすると、西田が追いすがってつかまえるのを振り放して階段を駆け下りたが、今度は西田の妻が階段下で大手を拡げてつかみかかるのを振り払って、足袋はだしのままピストルを手に待たせていた円タクに逃げ込む場面を展開し、単調な証拠調べの後に一脈の緊張を与え、二時十五分休憩。少憩後犬養首相の殺害現場にいあわせた犬養健氏の仲子夫人の調書では、外の騒ぎがひどくなるので保彦(子息)を家に連れて行こうと便所の前までくると、父は何ごとじゃといいました、暴れ者が来たようですと答えたが、その時勝手口が危いから締めろという声がして云々──を読みあげ、さらに首相附女中の調書に、陸海軍士官は私どもを助けに来たのだと思い、しかし候補生が女中部屋を蹴破るので助けに来たのにしては少し乱暴過ぎると思いました、首相のいる客間でピシッピシッと音がするので、士官の方が悪漢を捕えて懲しめているのだと思いました、客間へ入って見ると首相が突伏しているので、顔を上げて見るともう白眼、旦那様、とすがりつきました──など、事件の渦中の女性の心理を物語る事実が読みあげられ、新たなる感激が起る。事件登場人物の調書読み上げその他の証拠の披瀝ありて、高法務官各被告の承認を求め、なお高法務官はこの際被告から有利な証拠があるなら申出るよう尋ねたが、誰一人申出るものなし。山本検察官及び予審の供述と当法廷の陳述の喰い違い問題を質せば、各被告とも公判廷の供述が真意なる旨誓い、長時間にわたる証拠調べも終了。七月二十四日以来度を重ねること十九回に及ぶ事実調べはようやく結審、次に来るものは九月十一日の検察官の論告求刑である。

 八月三十日公判休廷。浅水特別弁護人、林弁護士面会に来る。次に来る論告後の両弁護人の弁護に当って、被告との連絡であろうが、自分としては何も取り立てて言うべきものもない。翌三十一日、級友山本、宮本両君が面会に来たので墨や唐紙を無心する。九月一日は級友小林、柳両君来る。

 公判で殆んど毎日法廷に連れ出されて約一年半前のことをまざまざと繰り拡げられ、あるいは感激、あるいは冷汗をかき、休憩時には大庭君と雑談し、昼食は特別に誰か差入れてくれたか知らぬが御馳走を喰い、被告人としては割合に活動的であったが、八月三十日より九月十日まで休廷となり、ようやく元の静けさに帰り、面会人が来る外は毎日の仕事はやはり手習いであり、それか級友達に筆墨等の無心の手紙書きくらいである。五日には土井、若杉両級友来り、さっそく小野道風玉泉帖、藤原佐理真蹟帖を無心する。翌六日は先に来た山本君に無心した毛センが届き、その用品は天下第一流の書家であるが、書くところの字はあいかわらずミミズがはい廻ったようなものである。それでも毎日を楽しく送ることが出来るのでありがたい。保留されていた手紙を許されて披見すれば、級友浦部、清水、従弟茂行からのもので、別に今まで保留されなければならぬ性質のものでもなさそうである。従弟からのは自分には不必要になった海軍の軍服の無心であるが、これは始末した後で、後の祭りだと返事を出す。級友土井君には手紙を書いて振替用紙を封入、印版及び外に読みたき本二冊を注文する。連日秋晴で房内の生活も気持よい限りである。

 九月十一日、公判。本日は検察官の論告求刑の当日である。定刻開廷。裁判官の背後には海軍の将星二十余名、山田法務局長、八並司法政務次官、木内、市島、佐野各検事、陸軍の将官数氏並びに陸軍側弁護人平松、角岡、山田氏等の特別弁護人が居並び、冒頭塚崎弁護人は一中学生から送って来た麻のハンカチに血書した減刑嘆願書をはじめ朝鮮同胞四十七名から特に寄せて来た連署の嘆願書、さては貧者の一少女から、お国のためにやった兵隊さん達を殺さないで下さい、私が働いて少しずつ蓄めたお金です、どうぞ兵隊さん達に好きなものを買ってあげて下さい──と金一円を添えて無邪気に訴える童心の嘆願書を塚崎弁護士は涙とともに披露すれば、被告一同涙をふき、山岸君の如きはクスンクスンと泣きだす。次いで高須裁判長は被告に起立を命ずると、山本検察官は自席に立って徐ろに口を開き、「本職の論告は相当長時間にわたるから、疲れたら着席を許されても差支えありません」と温情を示し、左の如き論告文をひもどき、序論において事件の重大性を述べ、この時高須裁判長は「腰をおろしてもよろしい」と静かに告げたが、被告は誰一人着席するものがないばかりか、小ゆるぎさえしない。次いで動機観察に入り、被告らの精神を生かした後各被告の認識不足の点を指摘し、一段声を励まし被告らが法廷において往々上官侮慢にわたる不謹慎な言動があったと痛論するや、三上、山岸両君はギョッと検察官の顔を睨み、それから被告らの交友関係思想上の影響に入り、故藤井少佐を本件の主動者と断じ、上司を難じ政治域に進んだ被告らの言動を遺憾とし、非合法暴力行為を排し、さらに司法官としての国法守護の天職をつくすべき断乎たる所信を披歴し、赤穂義士処分に関する荻生徂徠の説を読み上げる。検察官はしばしコップの水を飲み、声をしぼり法律論を進める。かくて最後の情状論を述べ、しわがれ声をもって決然として別項の如き求刑をした。時に午前十一時十九分。裁判長休憩を宣し、被告一同粛然として退廷。


(140頁01行~146頁下段12行)



〔写真〕

「五・一五事件」海軍側求刑
(昭和8年9月12日,東京毎夕新聞)

 
 
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