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5・15事件(一海軍士官の青春) 19

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 7月 1日(木)13時38分56秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著


    第3章  東京軍法会議

   4 大道即一身 -前-

 十三日、十四日と公判は休みとなり、毎日傍聴していてもなんだかある程度疲れを覚える。十三日は一日房内でゴロゴロと何もせず過し、十四日は朝から字書きを始め、画仙紙に自作の詩を二十杖くらい書く。久しぶりに落ちついた気持で書いた故か、今日のは割合に出来ばえがよいようである。

 八月十五日、反乱罪の連中の訊問は既に済んで、本日は反乱予備罪被告伊東亀城君先ず立ち、井上日召の破壊哲学なる無組織の組織について述べたいとて、一身同体、同志一如論を述べ、「日本はあらゆる方面に行詰り、一時的弥縫策では許されぬ情態で、これが打開の具体的運動には、わけのわからぬファッショ団体、それに労働者、農民団体、共産党などすべてを一括して無組織の組織として次から次へと爆発し、破壊を完成するのである」と論じ、故藤井少佐については「人格的思想的に影響はうけた。しかしドンキホーテ的の誇大妄想狂的の大アジア主義の感化は受けていない」。橘愛郷塾頭について「彼は隣人愛に立脚し、直接行動など出来ぬ神の子みたいな男だとばかり思っていたが、積極的に尖鋭化しているのを当公判廷ではじめて知って驚いた。これは佐世保組の認識不定であった」、大川博士は「撤頭撤尾排撃すべき民衆の敵」と論じ、井上目召については「彼は一片の私心なく人情に富み、私が由井正雪の故智にならった帝都火災案を出した時に──貴様は冷酷のケダモノだ、吾々は民衆を救うのが役目だ──とさんざんに怒られた。また私は新戦術として警官刑事その他支配階級の番犬を殺すのは少しも気の毒でないと言うと、日召は──彼らも妻子を養っている一人の民衆だ──と諭された」と礼讃。ロンドン会議の時、藤井君と二人で海軍省に山梨次官を訪ね、統帥権に関する御高説を伺いに行くと、職権をもって追い返されて行くところがないので権藤成卿を訪ねた、と権藤を知るに到った動機を述べ、出身地が青森県だけに東北の「飢饉風」などにつき故郷の実状を語り、平均四年に一度見舞う東北地方の飢饉が革新運動加入の動機をなしたことを陳述。休憩後再開。権藤成卿方裏の空屋の重要会議において、伊東「四元義隆が古賀と中村に対し事件決行の時は霞ケ浦航空隊から飛行機及び爆弾を出したらどうかと提案し、一同賛成し、紀元節テロ実は私が提案したのだと記憶するが、政府高官が宮中祝賀会から退出の時に遊撃し、水交社においては財部、岡田、谷口三大将が祝賀会に出席するからこれも殺すことを提案、賛成を得た」。警視庁を襲撃のために下検分に行き、特高課長から詳しく武装の貧弱なることを聞き出して、襲撃容易と思ったと述べ、上海で負傷し護送されるに当り、大切に股間に手榴弾を隠して内地に帰り、佐世保病院にて林に渡したことなど述べて昼の休憩となる。

 午後一時十五分再開。伊東は佐世保病院で、四月十日、林から古賀の手紙を見せられ、農民軍決死隊や大川軍のことを知った時、「中央にいる古賀が錯誤に陥っていると思った。農民は米がない飢饉の時は稗でも何でも喰い、なかなか起たぬものであり、古賀は人を信じ易く、大川などを信じたのかも知れないと思ったからだ。私は──独得の新戦術──をやろうと主張し、病院を抜出して決行に加わる積りであったが、決行三日前に病院に林、大庭が来て、中央でも古賀と山岸の間に時期的に意見の相違があり、林が工作して時期を延期させることを相談した」

 高法務官「帝都で事件が決行されたことをいつ知ったか」

 伊東「号外を見て知った。戒厳令が布かれるであろうと書いてあった。むろん古賀らの同志がやったものと思った」。

 高「その時の感想は」

 伊東「号外には憲兵隊に自首とあったが、これは憲兵隊襲撃の誤報であると思った。そこで私は大庭と会い、今後の計画として、大庭は某国大使と財部大将を、私は某国領事と事件担当の法務官を、今後の見せしめのため撃殺する決意をした」と第二次計画をいい放って高法務官を苦笑させる。高法務官は伊東のいう「無組織の組織」について、爆発破壊後の結果はどうするかと訊問すると、

 伊東「私は破壊のみで建設は考えなかった。あらゆる革命において最後の決定を与えるものは武力である。しかし陸の上では海軍は駄目だ。宇垣一派が爆発すれば荒木一派が次に爆発するだろう。これが無組織で、建設は権藤か誰かがやってくれることであろうと思っていた」

 と答え、高須裁判長現在の心境を質せば、

 伊藤「吾々の如く頭から法を無視し軍規を破壊した非合法運動を起すようなものを出すに至ったのは、これはなるようになったのである」

 将来の覚悟について「いささかなりとも君民一如の近づくのを望んでいる。経済組織や制度が変っても人間の心が変らねば駄目かも知れぬが、そういうことは万々承知の上である。今後といえども君民一如を妨げ、私利私欲を図るものあれば、やりたくないことではあるがまたやるようになるかも知れない。吾々は親も捨て兄弟も捨て行動したのであるが、このため私利私欲のみ図る支配階級の猛省を促し、君民一如の国家になればそれ以上の望みはありません」と述べ、次いで補充訊問に入り、林弁護士よりマルキシズムと日本の国体のことなど二、三質問の後──伊東少尉が日召に対し、個人テロをどうしてもやる場合には谷口大将だけは私に残して置いてくれといっているのは何の意味か──と質せば、
 伊東「谷口大将は軍令部長になってからロンドン条約実施後の吾が海軍の立て直しについて軍事参議官会議に案を提出し、これでは駄目だと突返され、またやり直しては突返されるなど、国防に対しまったく無責任であったのと、一つには事なかれ主義で、戦争をするのに弾丸はなくても大和魂で、戦をするなどと、めちゃくちゃなことをいっています」と谷口大将をこき下し、次いで清瀬、福田両弁護人からも質問あり。午後二時十七分閉廷となる。

 次回は八月十七日、反乱予備罪被告大庭春雄君の番。大庭君は吾々海軍被告中の最年少者である。他の被告同様大川博士を攻撃し、井上日召の人格に魅せられ、その破壊哲学に共鳴し、国家革新の考えを抱くに到った動機について、 大庭「親爺の任地の関係で小学校を四度も転々している問に、すこぶる不親切な教師に出会い、中学校でも教育に関する不満から転じて為政者を非難する気になり、教育刷新、人物養成を考えるようになったこと、第二は兵学校時代に起った南京事件の外交の不振、第三は藤井との接触、これが決定的のものでした」

 次いで浜勇治君の家に武器を預けに行ったが浜君は留守で、妻君に大切なものだからと預け、浜君を外国語学校に訪ねて事情を話したところ、浜は迷惑そうな顔をし、この中の一丁は菱沼が団琢磨を暗殺暗殺の時に使用し、他は全部没収され、昭和七年二月末佐世保駆逐艦楡に乗組み、上海事変に後方連絡のため出動し、上海佐世保問を五回往復、三月下旬佐世保海兵団の林より、上海の三上から手榴弾を受取って来いといわれ、村山を通じて手榴弾二十個を預かり、手榴弾は木箱に入れ、表には──壊はれもの御用心──と書いてあり、ピストルも同時に受取り、手榴弾は三月二十七日佐世保海兵団の林の部屋に運び、私自身もこの事榴弾を投げて帝都を撹乱する積りであったと述べ、佐世保滞在中は出来るだけ時間を作って林と会い、中央からの連絡によって相談した。五月五日塚野大尉の官舎で開かれた佐世保組の向背を決する最後的協議会の模様を、

 大庭「元来自分は即行論であったが、その場の鈴木四郎の反対論並びに古賀忠一の尚早論に引きずられ、その後中央からいよいよ決行の連絡あり、いろいろ情報に変化ありて苦慮し、最後に林より上京して一週間の期限付延期を中央に勧告するようにいわれて上京を決心し、伊東はやる時は病院からかつぎ出してくれといっていました」

 と述べ休憩。

 午後再開。艦長藤田少佐より喩が入渠後、すなわち十六日から休暇を許されることが決行前日の十四日に決ったので、十六日出発する予定でいたが、十五目に中央で決行してしまった。当日午後八時頃新聞社前の張り出しによって事件を知り、それより塚野の官舎に行き、林を探したが居らず、古賀忠一、塚野両君と官舎で相談しているところに夜おそく林がのそっとやって来、拳銃を天井裏に隠し、同夜深更鎮守府に呼び出されてそのまま拘禁された経緯を述べる。

 高法務官「何かこの際いうことがあるか」

 大庭「ありません」

 といい切り、高須裁判長よりの感想、現在の心境及び将来を問われて、

 大庭「当時破壊した後をどうするという成算はなく、戒厳令誘致について十分な自信はなかった。古賀の計画も首相官邸の外数個所を襲うものと莫然と知っていた程度で、変電所襲撃は知らなかった。過去のことを一言にしていえば、かかる破壊行動では国家革新は徹底し得ない。結局教育を以て国民を根本より自覚せしむる外ない。刑期を終えたらさらに忠君愛国の誠を致そうと思うのみであります」 弁護士の補充訊問の後閉廷さる。

 監房に帰っていよいよ明日は自分の番であるが、今までの公判の様子では、何から何までいちいち予審を操り返すようなものであり、公判廷でも何もいうことはない、一切は天の裁断に任かすと一言いって終る積りであったが、そうはいかぬ。問われるままにありのままを述べることにしようと一応記憶をよび起してみた。

 八月十八日、定刻開廷。裁判長より林と呼び出されて陳述台に立つ。型の如く高法務官より身許、経歴について調べがあり、故藤井斎君のことに及び、藤井は知り合った当時は誇大妄想狂的な男と思っていたが、その後燃ゆるが如き熱情と不撓不屈の精神の所有者であることを発見し、三上は話せる落ちついた男であり、その外の被告との事件前における関係を率直に述べ、塚野道雄君について、

 林「昭和七年二月塚野が海兵団に病気上りで出て来て相知り、彼はテロは考慮の余地がある、建設のことも考えねばならぬ、自分(塚野)は家庭の事情からテロ方に加われないといったので、同志獲得の世話及び後方のことを依頼したのであります」

 と、今まで他の被告が明らかにしてない点は自分の方で明細に述べ、予審調書で間違ってないところはそのまま肯定。

 昭和六年五月佐世保で井上日召氏と会見し、当時の日召観を述べ、国家革新及び直接行動の動機論に移り、

 林「私は肥後藩士族の末席を汚す家に生れ、貧乏と頑固な教育と熊本神風連の殉教的精神の感化を受け、非常な期待を抱いて兵学校に入学したのでありますが、その教育と生徒の心情は私の期待を裏切ってしまい、そこで私は自分自身で自分を磨け、肝を作れという気持になって、学課などはうっちゃらかして偉人の伝記等精神修養に関する本ばかりを読み、あるいは坐禅の真似事をして精神的に苦しみ、特に少尉時代に肺病になり、内的に非常に苦悩し、ようやく回復して海兵団に復職後──自己すなわち日本国家なり──という悟りを開きましたが、これが私の革命精神の根源であります。人間は生死を超越して大道に生きるものであり、日本本来の面目は大道そのものであり、言葉を代えて云えば神ながらの道すなわち君民一如の政道であります。この大道は世界に於ける総ての問題を解決する根源であると確信しました。最近の吾が国情を見るに、政治経済外交教育等各方面に行詰りを生じ、他の被告が申上げました通りに諸般の失態を露出し、小川、小橋、山梨、山岡等の醜類を出し、統帥権問題まで惹起しました。この根源を尋ぬれば人そのものの問題であり、人が本末を顚倒し、権力財力肉体的生命等に左右されているからであり、要するに教育の根本的誤謬にあります。今日の教育は米喰う機械と羽二重の着物を着た藁人形か、ヒョロヒョロとした底力のない風船玉的人間を製造しているに過ぎず、どうしても大道を徹見し、大道を生き抜く底の人物がどんどん出て来なければ、いかに制度機構を立派にしてもそれは外見のみにしてまた退腐して行くものであろうと思います。私の体験から申しましても、人間は生死巌頭に立つ如き一大衝撃を受けた時に、翻然として本来の面目に還るものであります。ここに於いて日本を救うものは大道に徹せる真の日本人であり、国民全体に一大ショックを与えて本来の面目すなわち神ながらの道に還らせ、本末を正すことによって日本の革新ははじめて可能であると確信したのであります。しかしながら、これがために国際的に威信を失墜するが如きことがあってはならぬと思い、決行の時期を考慮し、また大部隊を動員せんとして陸軍及びその他の団体との提携の要あることを強調しましたが、革新を全からしむるには一朝一夕では不可能であり、百年の日数を要するかも知れないと考えました」

 と大綱を述べ、さらに、

 林「吾々の実際やったことは、結果的には犬養首相一人を殺したに過ぎず、佐郷崖のやったことに毛のはえたようなものだが、吾々は単なるテロリストでもなく、否々の精神はどこまでも日本を革新することにありました。ことは失敗に終り、吾々佐世保組は意気地なしの肝の出来てない連中だと見せかけ、予審官裁判官を偽って逃げ出し、一日も早く出獄して、もう一度本格的のことをやり直す積りで居りましたが、遂に考え通りに物事はうまく運ばず破綻を来たしました──天行は健なり──との言葉通りであります。従って私の予審調書には真の私の気持があまり現われていない点があると思います」

 高法務官「当公判では本当の腹が出ているか」

 林「今度は本当のことです」

 と答え、十時十五分休憩。

 少憩後再開。高法務官予審調書によって昭和六年五月上旬林が三上と佐世保水交社で会見した時の模様を読み上げ、
 高「その時被告は三上らがどんな考えを持ち、またどんな計画をするか興味をもって見ていたと予審で述べていることは」

 林「それは嘘であります。私は当時事実上の同志として一緒でやる考えでありました」
 昨年(昭和七年)一月十四日、血盟団の四元義隆が紀元節テロ案を提げて関西九州鎮海の同志糾合にやって来た際も、これに賛成し、自らこれに参加する積りであったこと、故藤井斎君が上海に出征する直前の昨年一月二十八日、藤井と佐世保海兵団の私の部屋で会い、二月十一日決行を大局的見地より延期する意見を述べ、藤井の同意を得、後は頼むといわれ、「ヨシ引受けた」と返事をしたことを語り、さらに小沼正が井上準之助氏を打った翌々日の二月十一日、早くも佐世保海軍病院に入院中の伊東亀城君が法務官の取調べを受けた点に及び、

 林「私は翌十二日伊東を訪ねて法務官の取調べに対し、この際強がりは絶対禁物、出来るだけ嘘を言って血盟団とは離反しているように装い、もし先方に証拠があったらその罪は死んだ藤井に押しつけておけ、死人に口なしだからこれが一番よいと忠告しましたところ、伊東は大丈夫心得ていると申しました」

 海軍同志の発覚を防ぐため、故藤井君を利用したこと、中央にいた古賀君との連絡事項、小沼の第一弾以来佐世保で法務長、法務局長並びに島田法務官に調べられ、嘘をいったこと、佐世保から東京への武器輸送、塚野君の紹介で岩垂徳雄君を知り、ピストル購入を依顕し、長崎に密輸ピストルを探がさせたが入手出来なかった顚末を述べ、十一時四十五分休憩。

 午後一時十五分再開。

 林「昨年四月末、佐世保海軍病院の伊東亀城のところで山岸宏からの決行延期論の手紙を見て感を同じうしました」。

 高「大体どんな見透しであったか」

 林「私は相当大部隊を動員しなければ政府を顚覆、戒厳令を誘致することは困難であると同時に、また私の意図する国民に一大衝激を与えることも出来ないと思って、相当に大仕掛でやる積りでありました。革新の要点に就いては他の被告が申上げましたのと大同小異でありますが、特に私としては人心の刷新に重点をおき、教育の大改革、軍隊の人事行政を刷新してもらいたいと思って居りました。内閣のメンバーには差し当り吾々に近い荒木陸相、末次信正、小林省三郎民らが頭の中に浮び、一時は軍政府ということになりますが、その後のことはそれらの人々を通じてやってもらえばよく、後々のことは的確なものはありませんでした」。

 審理いよいよ決行直前になり、例の水月という雅号や正子の女名前等で古賀及び上京中の黒岩君と暗号電報を交換し決行延期を努力したことを語り、古賀君の情報でこと失敗に終ると予想し、

 林「私は国家革新のことは徒らに焦燥にかられてはならず、急がなくとも機会はあろうと考えて中央に延期を交渉し、その間に九州における陸軍同志をして中央の陸軍菅波一派を説かせ、陸軍将校団も参加させ得ると思っていました」

 黒岩君より──返済期限延期出来ぬ──と予定通り五月十五日決行の暗号電報を受取り、極力一週間延期せしむる覚悟で大庭君を上京せしむることにし、十六日上京出来ることになり──同志一名十六日タツ──と打電、大庭君上京後延期もし不可能となれば、自分は彼らを見殺しには出来ず、万難を排し上京する覚悟でその手筈を一切終了し、十五日当日は佐世保郊外の相の浦に芸者一枝と別離のために遊び、夕方佐世保に帰り新聞社前にて決行を知り、──やったか──と思い、もうこうなっては慌てても仕方なく、そのまま一枝と活動を見物して塚野君の官舎に行き、古賀忠一、大庭春雄の両君、塚野君とともに武器を囲んで協議していたが、私の顔を見るなり──ヤッタゾ──というので──知っとる、一枝と活動見て来たといえば一同アッ気にとられ、それから、ピストルを天井裏に隠し、その中に拘禁された事実を述べた。

 高法務官「この際なにかいうことはないか」

 と尋ねられ──よし、序だ、いってやろう──と思って、

 林「教育に関して些か所見を述べます。現代の学校教育は生徒本位ではなく教師本位であり、学校本位である。すなわち教師が自己の生活安定及び栄達のための仕事であり、学校の名利のためである外何ものでもない。生徒に重点を尚き、また人を作らんとする熱烈なる態度はなく、人間と人間の接触なく、魂の交流は断絶し、人格的感化は殆んどない。すなわち知識の切り売りであり、教師そのものが人間的練磨に於いて甚だ不足して居り、かかる教育は真の教育とは断じていえず、私は教育は愛なりと信じます。例を挙げるならば、倶胝和尚が弟子の指を断ってこれを開悟せしめた深愛、良寛和尚が甥を訓戒せんとして言を発する能わず、帰途草鞋の緒を涙で湿して不良甥をして翻然前非を悔い真人間に立ち返らした切愛、倶胝は冷く良寛は温く、いずれもその本は愛であります。師は弟子を愛し弟子は師を愛し、この愛の交流があってはじめて教育が成立つものであります。これを根底に制度的には中学・高等学校における外国語を全廃し、外国語は専門的に翻訳者を養成並に外交官及び特別なるものに教えればよく、他は人間陶治と日本国自身を知るために歴史教育を重んじ、その外は専門的科学教育を重視することが肝要であると思います」と強調し、さらに「兵学校時代に某教官に理想を問えば長官旗を掲げる身になることだといったが、教官の大部分はかくの如き栄達の徒であり、かかる教官に教わる生徒は栄達を望むは当然にして、下士官兵はまたこれに追随し、彼らの唱える忠君愛国は報酬的で自己の栄達を願う売買道徳の外何ものでもない。かような教育がなされている現日本は決してよくなる筈がありません」

 と、長々とこの時は熱弁を振った。高須裁判長例によって現在の必境を問えば、

 林「日本を本来の面目に還らしたいと思ったのでありますが、私自身の常住坐臥に未だ不徹底の点を発見し、この点から見て私の心境には一種の妄想があったことを入獄後悟りました。大道は遠き彼方にあらずして五尺の肉体すなわち──大道即一身──でなければなりません。よってこれから私は新らしく更生して、自分は正真正銘の人間であり、真の日本人として大手を振って闊歩出来るようにと念じて居ります」

 裁判長「将来に対する覚悟は」

 林「天命を楽んで忠君愛国の誠を尽すとともに、日本国民全部が──自己すなわち日本なり──との信念を以て、真の日本人としての日常生活が出来るように努力したいと思って居ります」

 と明言し、林弁護士より獄中作の左の二詩を読みあげ、その気持を質さす。

 一、人生尊赤血 百識乱真明  (人生赤血を尊び 百識真明を乱す)
   一剣依天断 心田開豁清  (一剣天に依って断ずれば 心田開豁として清し)

 二、截断私心独浩然 行雲流水是真人(私心を截断すれば独り浩然 行雲流水是れ真人)
   覚知三十年来夢 大道長安即一身(覚めて知る三十年来の夢 大道長安即一身)


 林「右の二詩は私が獄中で苦しんだ後心境に一転機を来たし、自分なりにある種の境地を開拓した後のものであり、五言絶句の方は開拓した心境そのものを表現したもので、七言絶句の方は自分の過去を恥じ、禅で言う大道長安に通ずという公案を引用して、その公案は飯を喰って糞をたれること自体である。すなわち山は高く谷は低いという自然そのままが道の実体であることをいい表わしたものであります」

 三時十分閉廷。自分の陳述を終り、監房に帰り、ホッとした。何ごともいわずして済ましたかった公判も、問われれば致し方なく、その中には却って熱をあげて言葉も強くしゃべってしまった。従妹島田寿子に返信を書く。

 十九、二十、二十一、二十二と公判は休廷。何ものも忘れて習字に没頭する。
 
 
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