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5・15事件(一海軍士官の青春) 18

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月24日(木)10時11分22秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

    第3章  東京軍法会議



  3.首相暗殺

 公判も古賀、村山君と終って、三上君も第一日は終り、大体において彼らが言うことは大同小異であり、法廷でただ傍聴しているだけの吾々はある程度退屈を覚える。休憩時には同じ控室にいる大庭君に自分の入獄以来の所感並びに所見を話す。大庭君は非常に共鳴して来た。佐世保にいる間は事件前で自分の如きは四回も当局から調べられ、大庭君も数回呼ばれた。彼は上海との連絡船に乗艦しお互いに多忙であったため、用件のみしか話合わなかったが、今やことは終了し、相被告の傍聴で暇はあり、気持も互いに落着いているのでよく話合った。結局はなんだかんだと言っても人間の問題だ、人間的内容が練磨され向上しておらねば、ただ単に制度機構のみを変えても世の中はよくなるものではない、制度機構は着物みたようなものだ、問題は着物を着ている御本人のいかんである、自分自身が日本国なりというところに自覚して自己を探究し鞭ち、日本人としての内容充実に重点をおかねばならぬ、自分と国家が対立に立っていては駄目である、という意味のことをいろいろと尾鰭をつけて話した。休憩時に大庭君と話しているのに楽しみを覚えた。三上、黒岩両君は休憩時も特別弁護人及び弁護士その他世話をしてくれた海軍士官といろいろ相談もするようだし、なんだか忙しい様子である。三上君はやはり公判廷の花形である。

 公判第七日、小雨そぼ降る八月三日、例によって朝護送自動車で軍法会議に向う。先日に続き三上君の訊問である。先に公開禁止を宣せられて三上君は三月事件、十月事件に及び、三月事件は宇垣陸相を中心にクーデターが計画されていたが、牧野内府の「宇垣さん、止めろ」の一言で沙汰止みとなったこと、続いて同昭和六年十月の橋本欣五郎陸軍中佐を中心とする十月事件の内容を暴露し、吾々抜刀隊(海軍の吾々同志)との関係並びに小磯軍務局長その他関係者の名を挙げ、その思想的根拠はファッシズムであり不純さがある、遂にことは中途で暴露し、その後仕末で関係者が互いに啀み合うことになったと逐一舌鋒鋭く攻撃した。毒舌当るべからざるものがあった。彼にかかっては陸海軍の将星も一文の値打ちもなく、例えば海軍の谷口尚真大将の如きはシャボテン頭とどこで覚えたか仇名でやっつける始末。油が乗って滔々として弁じ立てる。この日は相当重大と思ってか、秦陸軍憲兵司令官、八並政務次官、山田海軍法務局長、松山侮軍航空本部長、東京控訴院思想係熊谷検事等が特別傍聴席で熱心に傍聴する。午前中は傍聴禁止のまま終始し、休憩に至る。

 午後二時再開、傍聴禁止は解かれる。三上君は昭和七年の上海事変から佐世保に凱旋してからのことに言及し、塚野大尉の官舎に集り準備完成のため決行を遅らせることは差支えなし、血盟団以後警戒厳重となった今日、個人テロはやめて正攻法による集団テロを行う必要あり、五月三日中央から情報々告に帰った黒岩君と武雄温泉で会い、情報を聞いてやや不安を感じ、徒らに決行の期日だけ決めても駄目だ、参加しそうな者は準備期間を与えて出来るだけ参加させたがよく、林は大体決行には賛成だし、佐世保の同志全部が参加出来るようにしたい旨古賀に伝えるよう黒岩君にいいふくめ、翌日林と会い互いに中央では決行を急ぎ過ぎている模様を話し、五月に塚野大尉の官舎で佐世保同志の会合を開き、自分より中央の動静と計画内容を話し、鈴木四郎君が「時期の問題はとにかく、オレはやりたくない」と言い、古賀忠一君は時期尚早を唱えて「十二月頃まで待ったらどうか」と言い、大庭君はやや賛成、林は海兵団の都合で中坐し、自分独りで佐世保組は第二線に廻ってもらう方が賢明だと内心思って自分の意見をいわずにしまったことを述べ、さらに呉に転勤になり、いよいよ呉在泊軍艦妙高より十三日脱出し東京に向い、出発直前佐世保の林より正子名義で「腹の工合いかん」の電報を受取ったが、佐世保組は第二線に廻す積りだったので返事をださず、十四日朝東京着、古賀君の計画を見て「黒岩に頼んでおいた檄文等がいまだ出来上っておらず、協同隊となるべきものとの連結も不十分なことなどからこれでは失敗する」と一種のヒラメキを感じたと述べ立てる。「決行後憲兵隊に行くことは自首に非ず、一時の足溜りで、そこからまたどこかに出かけるのかと思った」と型外れの陳述を平気でやり、古賀君の計画にいろいろ意見を述べたが、結局古賀君の計画通り実行したことなどを述べてその日は終る。

 八月四日、三上君の第三日日の訊問。決行日午前、古賀君より二百円もらって神田で騰写版を買い、用紙千五百枚を整えて宿舎の竜名館で即座に檄文を起草騰写した顚末を述べる。高法務官「檄文の趣旨について説明を加えることはあるか」。三上「この檄文に記した日本の各方面の行詰りは周知の事実であるが、代議士選挙の弊害、財界と政党の因縁関係、特権階級代表の西園寺、牧野の元老重臣としての輔弼の重責を軽んじ、財閥と結託し政党を左右し、自己の権勢利殖のみを計る字垣大将が政界の動揺する毎に朝鮮総督の身でありながら上京し、牧野、西園寺の鼻息を伺うなどその醜状ぶりは言語に絶する。これで檄文の説明を終ります」と結ぶ。

 いよいよ首相官邸に表組として乗込み、首相を発見して殺害に到るまでの経緯を問われるままに詳細に述べ、特に首相が落ついた口調で「そう無理せんでもよく話せばわかる」と言って、食堂より前に立って日本間に案内し、床を背にして座布団の上に端座し、「靴くらい脱いだらどうじゃ」といい、「吾々が何のために来たか解るじゃろ、この際何か言い遺すことはないか」と尋ねると、やや少し身体を前方に乗出し、両手をテーブルの上に置いたまま何事か語り出さんとした─この瞬間山岸が「問答いらん、撃て」と叫び、間髪入れず飛込んで来た黒岩が山岸、村山の間に位置してピストルを発射した音を聞いた─自分は山岸の声を聞き「よし」と言いながら引金を引いたが、自分の発射より前に黒岩が撃った─山岸の言をきかず、何ごとか首相に言わせたなら、「一個人を恨んでやるのではない。総ては天命である。安んじて眠れと言うつもりだった─と答える。

 高法務官「犬養首相は翌日の午前二時三十互分逝去されたと聞いていかなる感想をもったか」

 三上「私が最初に首相を発見して以来、首相の実に立派な態度を全部目撃しているので、首相個人に対する人間としての愛惜の情を禁じ得ないと同時に、希くは今までの邪悪なる日本の政治をしてこの悲壮なる首相の逝去を転機として、吾々の念願する真の天皇政治、昭和維新への首途たらしめんということを心中祈ってやまなかった次第であります」。さらに「吾々は他に合法的平和手段によって改造が行われるならば、その法をとったのである。目下の急務は精神の革新で、支配階級の人々が身を以て率先民衆に範を示して改造の端緒を開かねば嘘である。吾々は私心や階級的反感に基づく暴動反乱とはまったく違う。ただ期することは天皇治下の国民の幸福である。犯した罪は自覚しているが、私どもは純なる心境にあったのである。理論よりも実行で有象無象の右傾思想団体が名は日本主義を被るも内容空疎で勇しく悲憤憤慨しても、これは現実の実践力がない」

 と右翼団体を難じ、最後に高須裁判長将来について質せば、「吾々の行動いかんに拘らず現在日本は転換期に立っている。私どものやったことは確かに悪である。しかし私どもはやらずに居られないからやったという外表現の方法がない。国法に照しての罪の軽重の如きは私どもの考慮の外である。ただ上下心を一にして昭和維新の実をあげることを希う以外何の望みもない。私どもは今日たちどころに命を絶つとも、このことさえ出来れば何ら悔はない」と結び、閉廷となる。

 八月七日、定期開廷。三上君に対すする塚崎弁護士の質問あり。次いで特別弁護人朝田大尉より軍人らしい率直さで「決行後当然割腹するものと級友は思っていたが、自首したのはいかなる原因か」と尋ねる。三上「吾々の精神を国民に伝え皇道の意味を誤らせたくないためで、自首とは刑法の理論からいうも犯罪行為を申告するもので、自己の犯罪行為に対する屈服で自己否定である。吾々は昭和維新の第一歩を強く深く成果を獲得したいという考えで自決しなかったものである」と力強く答えて、足掛四日にわたった訊問を終る。

 一旦休憩の後午前十時四十分再開。唯一の予備役である妻帯者黒岩君の訊問が始まる。型通りの訊問があって、病を得て少尉任官後昭和四年春海軍を退き、翌年佐賀高校に入り、欠席多きため退学処分に付せられたことを一亘り述べ、昭和六年一月項から決行組に参加の決意をし、同年四月同志となったが三上以外に打明けて話をしたことはない(三上君と兵学校同期)、それより事件を起す原因となった思想の根底となっている事実数点を述べ、休憩後ロンドン条約問題に及び、三上君の意見に共鳴し、元々兵学校同期であり同郷である関係で三上君の依頼にて中央と佐世保間の連絡の任に当り、決行直前武器の輸送、佐世保の林と暗号電報往復の件など述べ、いよいよ決行前の十三日、池松武志君から封筒入の第五次計画書なるものを渡され、「この計画書によると、警視庁で決戦の後憲兵隊へ行くよう線が引いてあった。しかし私は警視庁との交戦で恐らく吾々は全滅し、筋は引いてあっても憲兵隊へ行くことはないだろうと考えました」と、流石に悲壮な感想を抱いた当時を回顧するようにみえる。

 かくて午後零時十五分休憩、午時一時半再開。五月十四日夜古賀、中村、三上君らと水交社にて最後の協議をしたことを述べる。

 高法務官「同夜遅く妻に遺書を認めたそうだが」

 黒岩「父母、兄弟へのものとともに妻へも遺書を書きました」

 高「どんな意味のものか」

 と問えば、しばし黙然とした後、

 黒岩「両親には今日までの恩を返し得ざるを詫び、兄弟には自分に代って親に孝養を頼み、妻には事態やむを得ずして家を捨て、ある行動を取るが、やむを得ないこととしてただ自分を信じて後のことを宜しく頼む、どうか一子典紀を天晴日本人として育てて君国の御用に立つべき人間となしてくれ、といったようなものでした」

 とポツリボツリと語り、さすが妻子ある身の切々の情を言外に現わす。

 高「その時の感想は」

 黒岩「私情においては堪え難いが、この際私情に拘わるべきではないと考えました」。

 ついで当日首相官邸に於いて犬養首相暗殺の場面に至り、

 黒岩「三上はやっと首相を発見、首相の肩に左手をかけて右手にピストルをぶらぶらさせながら歩いて出て行きました。首相とともに客間の入口でふり返って見ると、三十くらいの女と、子供を抱えた女がついてくるのを見て、何となくそこに来させたくない心持が起ったので、私一人引返し──君達には別に危害は加えぬからあちらへ行っていてもらいたい──というと、先頭の女の人が子供を指しながら──その子供を……──というので、──その子供がどうかしたか──と問うと、今度は何の返事もせぬので、心急ぎしながら同志のあとを追って客間に入ったのです。将に入る時に山岸の──問答いらぬ、撃て撃て──の声、次の瞬間私はピストルを首相の背後に突出すと同時に引金を引いていたのです」

 と妻子ある黒岩君が、婦人子供の身に細かい心遣いを配り、次の瞬間は第一弾を放つ息塞る情景を語る。憲兵隊自首の点については、

 黒岩「警視庁の襲撃で自分達が全滅すると思ったから、憲兵隊のことは大して考えなかった。三上のいったようなむづかしい法律的なことは考えず、自首のつもりでありました」

 かくて三時四十分休憩、十五分後再開。現在の心境及び将来について、「もし現在の支配階級が覚醒しない限り第二第三の五・一五事件がないとは言えない。私どもの行動それ自体は決して善ではありません。ただ総ての議論を越え、かくせざるを得ずしてこの悲しむべき手段をとるに到ったのであります。直接行動そのものは断じて濫りにとるべき方法ではないと思います」と語る。裁判長の訊問終り、清瀬弁護士の質問に答えて、

 黒岩「決行直前、病後の妻子をカムフラージュのため、同伴上京、上京後妻が再び中耳炎のため鼓膜を切開し、五月十五日の決行当日武器をとりに田代君の家に行った時など高熱のため妻と詰も出来なかった」ことなど縷々述べ、傍聴者を泣かせて同君の訊問を終る。時に午後四時五十分。

 一日おいて十日、定時公判開廷。首相射殺に当って「問答いらん、撃て」と叫んだ山岸君の訊問に入る。高法務官例によって各関係者との結合振りを質すと、故藤井少佐には相当の影響を受け、安岡正篤氏が関係している金鶏学院を烏会館と呼び、柔道は自称四段実際はありません、と傍聴者を笑わせる。西田税のみならず北一輝をも将来清算するつもりであったと北の日本改造論を鋭く攻撃、井上日召は海軍を指揮したことはなく、同じ陛下の赤子であり、彼は吾々を指揮する立場になっても指揮する観念を持たない、それが日召の偉大さであると褒めちぎり、権藤成卿は「指導原理の大本」なりとして多大の影響を受けたことを語る。さらに、山岸自身の思想の根底を一言申し述べると前提して、「腐敗せる現在の支配階級を圧潰して、これに代ってやろうとするが如きファッショは、絶対排撃。資本家財閥といえども一皮むけば等しく陛下の赤子である。万民等しく陛下の下に跪く天皇親政こそ、吾々の終局とする目的である」。所信を断行して直ちにこれを善なりとする危険思想のあることを指摘し、「これは非合法を合法と糊塗し、名を求める悪思想で、殊に陸軍部内に強大である。吾々は敢て国賊たる責は一身に負う。私は非合法によらねば現状を打開出来ぬと考えたのであるが、非合法は陛下の大御心に外れたことと信じております。故に自ら国賊なりと言います。然るに、社会風潮はこの非合法手段を以て直ちに是なりとする徒輩が多いので、先程私が申したのはこの徒輩の考えが誤っていることを指摘したのであります」。次いでワシントン会議及びロンドン条約問題に移り、十月事件に及び、傍聴禁止を宣せられて休憩に入る。午後一時開廷。傍聴禁止約一時間。十月事件の首脳者達中はファッショにして大御心に絶対添わず、現今の支配階級を倒して自分達の権勢欲を満足せんとする国賊なり、と猛烈に攻撃した。昭和七年二月十一日の紀元節テロを主張し、任地鎮海から上京する積りでいたが中止となり、四月横須賀に転任、権藤成卿を訪問して「決行の話をしたが、権藤はとにかく今年末まで待ったがよいというので、古賀に年末まで決行を待てと手紙を出しました。大体私は血盟団についでテロをやるなら二週間くらいでバタバタとやり、さらに一ヶ月以内に海軍が立たねば効果がないと思っていた。しかし血盟団のやるのを見ていると、井上準之助が撃たれてから殆んど一ヶ月もして団琢磨が撃たれた。これでは駄目だから海軍がやるのは年末まで見合せようと思っていました」と決行時期の問題に関し自己の当時の意見を述べ、その日は閉廷。

 翌十一日山岸君の訊問続行。決行当日に及び古賀君の計画を見て、鈴木貫太郎大将(時の侍従長)が目標にあがっていなかったので不服に思ったが、急に計画変更も困難と思って口には出さなかった。いよいよ首相襲撃の場面に到り、

 山岸「犬養は支那ゴロだから面と向ったら敗けはせぬかと陸軍の士官候補生がいうので、戦は時の勢だから飛び込んだ勢でやっつければ大丈夫と答え、私はピストルを三上にやったので短刀でやるつもりでいた」

 ついで殺害瞬間の情景に移り、「首相は──なんだ、靴などはいて、脱いだらどうか──というので、このどさくさに靴など脱げるか、その手は喰わぬぞと思ったが、これがやはり撃て撃ての号令となった主要な原因でしょう。首相は──兎に角話そう──といい、三上は応待する模様であったので「問答いらん、撃て撃て──と叫びました」。

 高法務官「被告は指揮官を以て任じていたのではないか」

 山岸「いやそんなことはありません」

 とあっさり否認する。首相逝去の感想については、「来ぬ春を待たで散りにし人柱、けふはいづこで国を見護る」獄中で詠んだ歌を読みあげる。

 高法務官「首相を殺した時刻を被告は知っているか」

 山岸「五時二十七分でした。私は航海の関係で何かあるたび毎に時計を見る癖がつき、その時も時計を見ました。私の時計は二十五分でしたが、私の時計は二分遅れていました」。

 ついで獄中で何より先に心をうたれたのは親の慈悲と兄弟の情であり、「克く忠に、克く孝に」は実に国体の大本をなすものであるとにじみ出るように述べ、それより宇宙観人生観について滔々と論じ、汗に眼鏡をくもらせながら神ながらの道に及び、進化論優生学が出るかと思えば模倣論が出、八方から論旨を進めて人類の集団性から天皇中心制の正しさを社会学上生物学上からも説明、声をからして教育勅語の精神を詳細に説く。

 高法務官「その思想でこのたびのことをどう考えているか」

 山岸「言っても聞かぬ毒物は生かしておいても仕方がない。直接行動も百年の大計を思えば敢て行います」

 高「それは独断ではないか」

 山岸「そうです。大御心に外れて道はありません」

 と答え、午前は終り。午後二時再開。裁判長より将来の覚悟を質せば、

 山岸「再び吾々如きものを出したくありません」

 と簡明卒直に答え、福田弁護士より人情問題つき二三質問、

 山岸「革命運動中といえども親を思わぬ日は一日たりともなかったが、ことが済んだ後の今は心中にただ親を思うのみ」

 と。これで山岸君の訊問を終り、村山格之君の調べに入った。

 村山君は日召に一度会い、日召が破壊さえすればあとはちゃんと出来てくるから心配せんでよいと説いたことに速坐に感銘し、権藤成卿は「日本的アナーキズムで天皇否定ではない」と彼の思想人格に感化され、革新運動に入るに至った動機については、「明治維新はインテリ志士によって成ったブルジョア革命で、これを無批判的に発達せしめたところに欠陥が暴露した」となし、田中大将の機密費事件、金塊事件、共産党の跋扈等を引合に出し、かかる社会をなんとかせねばならぬと思っている時に、藤井斎らの王師会を知って藤井に近づき、佐藤信淵の経済学説と自治民範とを搗合せたもので社会改造を断行すべきであると確信するに至り、同時に北一輝の日本改造法案を読み「コレコレ」と思い、いよいよ直接行動を起す覚悟が出来たのである。論はさらにロンドン会議に及び、当時の海軍は無統一から国防の重任を負いながら政党政治家、特権階級、財閥の前に泣寝入りさせられてしまった。と憤慨してこの日は閉廷。

 翌十二日、村山君の訊問続行。上海にいた当時古賀清志君より第二段に回ってやれといって来て、目標として財部、岡田、谷口、山本の各海軍大将を指示して来たと陳述。三上君と大庭君の間に立って武器輸送に携り、上海事変に関連して犬養内閣では駄目だから軍政府樹立の必要を痛感し、軍部内の先覚の士と新興政治集団とが一体となって国民を指導すべきだと思ったことを表明、横須賀砲術学校の教官助手として転任途中佐世保で内密に林と会い、当時林には犬(当局の監視)がついているので道もなるべく一緒に歩かなかった、犬に噛まれてはかないませんからなあ、と傍聴人を笑わせる。首相官邸襲撃の場面では首相を前にして、手を後に組んでいたが、黒岩君が撃った時おれもと思って手を出したが、三上君が撃ち、山岸君が引揚げろというのでそのまま引揚げ、途中木刀で立向った平山巡査に対しては生意気な奴と思い、とにかく一発撃ってみたかったので発射した、と正直なところを告白。高法務官首相逝去の感想を尋ねるや、

 村山「大津刑務所に入って以来、首相並びに他の犠牲者のため毎日黙祷をを捧げています」

 警視庁襲撃については「やってやってやっつけて、そこで討死するつもりでした。憲兵隊に行くのは変だと思ったが、山岸が憲兵を引出すんだと言っていましたので、私は暗くなるまで憲兵隊で一休みしようと思いました」

 高法務官「古賀の計画書を見て何と思ったか」

 村山「別働隊が成功しなければ少しばかり世間を騒がせるだけで何にもならない、犬養内閣は倒れて既成政党の連立内閣が出来るかも知れず、それでも少しは支配階級を覚醒せしむることがあるだろうと思いました」

 一旦休憩後再開。村山君は決行するに至った動機目的につき補足したい、とて「貧窮せる農民、激増せる失業者、経済組織の破綻、農村都会の反目、階級闘争の激化、権力野心の右翼運動、議会政治の堕落、軽薄なる物質文明、誤れる軟弱外交、無力無能にして私利私欲にのみ走る既成政党、著侈遊惰なる財閥、眠れる国民、これが現今の日本の姿であり、この行詰りと社会悪は結局資本主義社会そのものの所産であり、徹底的の改革がなければ救済不可能であり、ここに於いて吾々は起るべき新興勢力と国民の自覚によって革新する外ないと考えて、この狼火として今回の破壊行動に出たのであります」。高須裁判長から事件を通じての感想、将来に対する覚悟はときかれ、「私達は理論や理窟で動いていませんでした。希くぼ全国民よ、極悪なる功利主義とつまらぬ社会的虚栄と階級闘争をやめて、朗かになろう。天皇の御許にかえろう。私達は全国民がこぞって新興日本を建設し、さらに進んで世界が現に悩みに陥っている政治的経済的道徳宗教的混乱より全人類を救済することを祈ってやまないものであります。なお国法を犯し軍紀を紊した罪に対しては、厳重断乎たる御裁断を仰ぎますとともに、死しては魂塊となり日本帝国を守り、生ある限りは弥栄え行く皇道に仕え奉るものであります」と結ぶ。

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