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5・15事件(一海軍士官の青春) 17

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月21日(月)18時41分37秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第3章  東京軍法会議


       2.反ファッシズム

 高須裁判長の指図によっていよいよ高法務官の事実審理にはいる。高法務官は穏かな口調で「それではこれから反乱、反乱予備被告事件について審問を開始します。古賀」と古賀君を招き、父母及び兵学校に入学するまでの履歴、藤井斎君との関係並びに海軍側被告との関係、終って民間の井上日召、橘孝三郎、大川周明、頭山秀三、本間憲一郎、西田税、権藤成卿との関係を尋ね、兵学校時代思想上影響を受けたものに対する質問あり。さらにロンドン条約に及ぶ。

 古賀「ロンドン条約ではアメリカの資本に日本が圧伏されたのであり、当時の若槻全権は政党の代表者で政党は財閥によって動かされるものと信ずる。財部大将は元来海軍においては山本権兵衛伯のシーメンス事件以来の薩閥の流れをくむもの。財部海相は初めの主張を通さず譲歩したので、ロンドン条約の譲歩は今日の支配階級が非国家的存在であるからと思う」

 高法務官「今度の決行はロンドン条約と関連しているか」

 古賀「政党も特権階級も結局財閥の傀儡に過ぎぬとの意識を強めた。しかし当時の海軍は眠っていたので当時海軍部内では『量よりも質』ということが宣伝されたが、財部海相が──死すとも帰らず──と誓ってロンドンに臨んだのに譲歩して帰り、そうして部下に量よりも質といってみても何らきき目もないと思う。薩派等の軍閥というものは一種の屈辱的ものと思った」

 とロンドン条約は大失敗であると断じ、草刈少佐の自殺は単なる自殺とは思えなかったと力強く陳べる。

 高法務官「海軍は藤井が中心ではないか」

 古賀「藤井も中心であるが吾々は主従の関係はなく平等であり、ただ地理的関係等で役割が違うだけである」

 次いで昭和六年十月のいわゆる十月事件に及び、裁判長より公開禁止を宣せられ、弁護人及び特別弁護人以外は全部廷外に退出。十月事件の性質と吾々の関係並びに事件未然に発覚、その結果西田税と井上日召らとの対決となり、遂に西田来らずしてそれ以来西田に対しては一種疑惑の目でみるようになった。かくして公判初日は終了。吾々他の被告は椅子に腰を下して傍聴しているだけである。

 初めて公判廷に被告として出廷し古賀君の取調べを傍聴して、これでは予審を繰返すようなもので、最初から細大洩らさず訊問されては、いかに自分が公判廷では何も喋らずに終ろうと思っても到底不可能だと判った。

 公判終了後朝田特別弁護人が自分の控室に来たので、以前頼まれていた書を八枚浅水特別弁護人に渡してもらうように頼む。軍法会議場より再び護衛厳重に刑務所に帰り、夕食後字を書く。

 翌二十五日、公判第二日、公判廷出廷前に村上看守長来房し、民間側の係検事木内曽益より字の依頼があったから頼むとの注文。公判開始とともに新聞に出たものだから金釘流の字の注文がふえてきた。

 午前九時、前日に引続き非公開のまま公判続行。やがて公開を許されて十名足らずの傍聴者入廷して再開、古賀君の訊問に移る。

 決行の時期、陸海軍、血盟団との連繋等につき問答あり。

 古賀「小沼が井上準之助を暗殺した結果、伊東、大庭らの名が分ったから前線暴露の恐れがあるので、この際集団テロをやろうとし、西田税を訪れ、菅波、大蔵、安藤らの陸軍青年将校にも会い、次第に前線暴露の情勢にあり、またこれでは同志拡大も不可能であるから、実力部隊の人々は後の本隊となり学校その他が集団テロに参加してくれと話込んだが、西田は待ってくれといい、陸軍の青年将校も態度がハッキリせぬし、菅波中尉以下の大部分が上海戦に出征するありさまなので、遂に陸軍士官候補生に渡りをつけたところ直ちに同意し、青年将校の方は時期尚早として円滑に断った」

 と述べ、ついで武器入手の苦心談に及び、一旦休憩して再開。

 古賀「吾々は破壊を考え、建設の役を考えず、戒厳令を誘致して信頼する陸軍中将荒木陸相を首脳とする軍政府が樹立され、改造の段階に入るものと信じた」。

 昼約一時間休憩、午後一時再開。各地の同志から注文やら意見が来て、実行計画者として襲撃計画も第一次より第五次と変更され、最後に佐世保の林から暫く待てとの来電あって精神的打撃を受けて第四次計画を止め、すなわち五月十五日実行せし第五次計画樹立までの苦心の跡を陳述する。第五次計画の首相官邸、牧野内府邸、政友会本部、警視庁等の襲撃理由を明らかにして、さらに西田税は吾々の行動を妨害するものと認定して殺害する計画に到ったことを明言、警視庁ではもし多数の警官が迎撃した場合は討死する覚悟であった、と当時の決心を明かにする。

 次には高須裁判長自ら古賀君を招いて、「この事件についての被告の心境いかん」と厳かに聞き質せば、

 古賀「計画の立場にあったものとして粗雑極まる計画をなし、これを同志の間にも十分連絡をせず、大正十四年より約十年間狙っていた君側の奸牧野内府を除くことを得なかったのは不覚にして、また川崎長光にも志を貫かせず、その責は万死に値するものである。しかしこれは後世の史家に任すのみである」

 高須「将来に対する被告の覚悟は」

 古賀「私は反省の結果過去の考えは中正を失していたと思う。しかし私の済国救民の考えは少しも変らない。七転八起の考えを以てこの途に邁進します」

 高法務官はこの時裁判官としての訊問を終ったからとて何か尋ねることはないかと検察官席を顧る。山本検察官はこれに対し二、三質問した後、「重大事を決行するのにあまり簡単に考え過ぎていたかに思われるがいかん」と突込めば、

  古賀「然りであります」

と卒直に答える。

 山本「最後にもう一つ──革命運動は一代では出来ぬ。人柱という如き捨石を必要としているが、計画の冒頭に自首を案の中にいれているがその点いかん」

 古賀「憲兵隊に行き、従来の陸軍との関係を暴露し、陸軍を奮起せしめんとしたのだ」

 これで検察官の質問を終り、弁護人の質問に移る。

 弁護人「自首を決意したのは他に何か意味はなかったか」。

 古賀「それは草刈少佐の如きさえ神経衰弱で死んだと伝えられてしまう。死は急がなくとも誤解されないことに努めねばならぬと思ったからだ」

 他に二、三質問あり。午後二時古賀君に対する事実訊問を終り閉廷となった。古賀君が何故に憲兵隊に自首したか、はじめて吾にもわかったようなものである。

 古賀君が言っているように、同志間の連絡が不十分であったことも、計画が粗雑であったことも間違いないが、古賀君が苦労したことはよく判る。公判廷で古賀君の陳述を聞いていて自分には耳新しい事実が大分あり、そうであったかと思うことがたびたびある。何と言っても、霞ケ浦と佐世保と離れていて簡単な手紙や電報往復であるので、互いに意を尽していないことが相当にあった。お互いが軍隊のように指揮命令系統が明確になっておれば、上長の命ずるところ下僚は至上命令として突進するのであるが、お互いのなかに誰が指揮者と決っても居らず、ただ同志ということで平等の立場に立っている以上、互いに納得せねばならず、その辺がなかなか困難であったことは肯ける。そんなことを考えて監房に帰り、借りになっている字を書くことにした。

 字を書く時は何も考えず一生懸命になれる。十枚くらい書いて林弁護士依頼の分に自作の五言絶句と七言絶句を二枚書き上げ、アメリカ航路の遠航より帰って面会に来た級友久住忠男君を通じて渡す。同君よりアメリカの旅行談を聞く。今日はなんだか頭がボンヤリしている。憲兵及び小川録事君(予審当時の)に一枚金釘流を書き送り、借金払いをする。支那勤務の級友坂井君に支那墨の注文の手紙を出す。

 翌二十八日、公判午前九時開廷。本日より中村義雄君の訊問開始。中村君とは昭和三年遠洋航海時代は同じ出雲の乗組であり、終って砲術学校、水雷学校、航空隊と一緒にいて、どこに行くにも形影相添う親しい間柄であり、彼は真面目な人好きのする好漢で、物事の仕末のよい素朴勤勉な青年士官で、いつもニコニコしている。昭和六年十二月航空隊に古賀君とともに飛行学生となって後、純然たる同志となったものである。同君は霞ケ浦航空隊に於いて古賀君に協力して準備に当り、一日、後に二・二六事件で死刑となった村中、安藤君らの陸軍側に対し、血盟団の後を承けて陸海軍相携えてことを挙げんと力説したが、陸軍側は賛否の意を表明せず、その中にあった坂元士官候補生が独り賛成し、坂元君の連絡により士官候補生十名程と大久保に会合、この時青森連隊より来た相沢陸軍少佐がこの計画を聞き、革命などといって非合法運動を起し流血を見るということは面白くない、と忠告したが、血盟団の例を挙げこの忠告を退け、その後再び古賀君とともに陸軍士官候補生と会い、確実に行をともにするように決定づけられたことを述べてこの日の法官の訊問を終り、次いで塚崎弁護士より「去る二十三日、首相官邸、牧野内府邸の内外及び警視庁等の実地検証の申請を提出しておいたがお許しを願いたい」と述べ、裁判官合議の上この申請を採用、二十九日午後これらの実地検証を行うこととなって、三時五十分閉廷。

 翌二十九日、休廷。自分は目下のところ傍聴していればよいのであるが、やはり精神的に緊張し、些か疲労を覚えて、今日は字書きは数枚でやめ終日休養をとる。三十日、房内で終日習字をやる。自作の七言絶句を十四、五枚書く。志波、島崎両少佐の分をと思うが思わしいものがない。林逸郎弁護士及び浅水特別弁護人が面会にくる。何れも自分に公判廷でウンと喋らそうとしている模様である。古賀、中村両君の公判廷における公判の模様を見れば、いかに喋らずに済まそうと思っても、先方でそうは許さず、問わるるままに何とか口を開かねばなるまい。

 三十一日、公判は再び中村君の訊問。

 五月五日佐世保との連絡係たりし黒岩勇君と土浦で会い、

 中村「佐世保の鈴木四郎大尉は自重論だと黒岩君より聞き、なんとなく不安を感じた」

 高法務官「佐世保の林正義より水月の雅号で打ってきた例の『暫く決行待て』の電報については」

 中村「この電報は航空隊で古賀が私に示し──どうする──と問うので──この際決行せねば再び計画することは困難である。佐世保の同志が来ぬなら東京部隊だけで決行してはどうか──といって第三次計画を樹て、決行と決した」

 と答え、次いで第五次計画の効果予想について、戒厳令をあまり期待しなかったとこの点は古賀君と別な気持で、「私と古賀とは殆んど全部一致しているが、一点気持の上で違っていた。古賀は当法廷の陳述の如く戒厳令誘致まで行けると思っていたが、私は陸軍の煮え切らぬ態度や農民の方の思わしくない情勢に鑑み、戒厳令誘致は難しいと思った。しかし私は正々堂々とやってこの決行が国民に与える精神的影響を最も期待した」と当時の心中を吐露する。襲撃目標に対する襲撃理由は古賀君と殆んど同様のことを述べる。

 高「犬養首相暗殺の結果、あとはどんな内閣が出来ると思ったか」

 中村「平沼、安達の連立内閣が出来ると思っていた。然してその結果制度が大して変ろうとも思わなかった。大体私は魂さえ入替えれは制度はそのままでも差支えないと思っていた」

 と答えて、十一時五十分休憩。午後一時再開。特別傍聴席には野村横鎮長官が二度目の傍聴に来延、その他本多熊太郎氏の顔も見える。決行当日の模様が述べられ、高須裁判長から「事件決行後の心境を述べよ」とて、「徹底出来なかったのは一生の不覚で、今度の失敗も中央にあって活躍すべき私が無能であったためで、同志に対し申訳けない。陛下の軍人たるものが国法を破ったのは万死に価する。厳罰を望む」と古賀君同様失敗の責を痛感するらしい。ついで山本検察官が権藤の自治主義と北一輝の日本改造法案とを比較せよと求め、「中村この改造法案の国家資本主義制などが第一段階として適当である」と述べる。

 山本「破壊の後に来るものは権藤の自治主義と思ったか」

 中村「予審でそのように述べたのは進んで述べたのではない」

 とこの点は曖昧にする。林弁護士より「支配階級」「特権階級」「学閥」の名前を挙げ、財部大将、宇垣大将、西園寺公などの名をあげて攻撃し、中村君の意中を質す。稲本弁護人より「無益な殺傷をせぬとの申合せがあったか」と問われ、「申合せなくとも期せずして皆がその気持であった」と中村君は答える。これで中村君の訊問を終る。午後三時半頃監房に帰る。温和な中村君が自分が佐世保から暫く待てと打った電報を押し切って決心したとは、よくよくのことであり、純情一徹に思いつめていた情況がわかる。海軍病院に入院中の級友清水寿録君及び坂井倉一君に書を発送。

 八月一日、公判。司法次官、山田海軍法務局長、木内東京地方裁判所検事等の特別傍聴者の顔が見える。定刻開廷。本日は三上卓君の訊問。荒木陸相そっくりのピンとした口髭で容貌も似ている三上君が訊問台に立つ。高法務官より例によって藤井君及び他の被告との関係を問えば、「はじめは他人に頼る必要はない、俺一人でやるんだとの単独的な強い意思であったが、ロンドン条約以来、大なる効果を収めるには同志の団結が必要だと悟っているところに、たまたま昭和五年夏佐世保水交社で藤井と会って同志となったのだ」と、単に藤井君に誘われたのではなく独自の立場だと強調し、国家革新運動の精神と苦心とについて簡単に述べさせてもらいたいと乞い、許しを得て力強い語調で説き始める。
「維新も革命も同一義である。総てを日本的に解釈し日本的に実行せんとする以外に私は方法を知らぬ。祖国日本の精神に反するものを排するに当っては政治家、財閥、軍閥の何れたるを問わぬものである。吾々の運動は左傾にあらず右傾にあらず、共産党を排するはもちろんながら、ファッシズムを以て日本を救う途なりとする如きは最大の誤りである。ファッシズムは明治維新後の薩長藩閥政治がその典型で、悪政治であることが試験済みである」。ついで鉾先を陸軍の権勢欲に向け、「陸軍至上主義は陸軍意識ともいわるべく、その元兇は宇垣大将で、かくの如き私欲権勢を欲するものが上にある時、国政は乱れ、国民は塗炭の苦しみを受け、外国の侮りを受ける」と吹いて一旦休憩。三十分後再開。

 部外者との関係に及び「精神を同じうするものを同志とすれば同志である。大川周明は吾々の同志ではない。彼の思想は元来国家社会主義で軍部との腐れ縁はあろうがその根本精神において日本の本当の政治を理解せぬもので、吾々の運動に彼を利用するのは差支えないが、革命精神に於いて終始行動をともにすべき人間ではない」と言明、「頭山秀三は多少話せる男である。本間憲一郎柴山塾頭は顔も知らず、西田は結局何やかやと策動する男で真に国家を憂うるの士ではなく、軍閥と結んだ煽動屋、井上日召は純情と若さに加うるにどこまでもやるんだとの信念に燃ゆる男で「陸海軍同志にも強い影響をもっていたが、海軍同志間には、俺が引づったというような対立的打算的なものではなく、期せずしてお互いにやろうという性質のもので、日召も吾々もともに同志である。同志の一人一人が全同志に対するリーダーで同志一如である」とあくまで指導者を認めぬ。権藤成卿についてはどう思うかとの問いに、「彼のあくまで権力を否定し、古来の自治に立脚した制度革新を行うという説には、はじめは同感であったが、上海事変出征中にこの見方が変った。結局彼の思想では日本の国体と相容れぬものがあると考えるに至った」と権藤イズムを排撃する。

 午前中はこれで終り、午後一時再開。海軍の堕落は国政腐敗の反映であるとなし、前被告同様政党、財閥の非を鳴らし、自分の思想発達過程を述べてロンドン条約に論及、「当時のアメリカ駐日大使キャスルによって日本朝野の名士、大新聞は買収され、牧野内府は鈴木侍従長を丸めて帷幄上奏を阻止し、明聖を覆い、国の威信を失墜したのである。当時のアメリカ国務長官が──吾々の思う通りの比率を押しつけた、どんな貧乏国でも製艦競争で屈服威圧せしむることは出来ぬ、然るに日本は吾々の前に屈服したのである、私は脱帽して日本に敬礼する──と演説している。即ち日本の軟弱外交と海軍の軟弱振りの醜骸を曝した」と悲憤憤慨し、財部全権とともに浜口首相を暗殺せんと決意したが思いとどまったことを述べる。次いで十月事件に及ばんとして検察官より安寧秩序を害する恐れありと公開禁止を要求したのに対し、三上君は語調烈しく「そもそも安寧秩序とは国家百年の大計より過去を以て現代を正し、現代を以て将来を規律して行くべきものだと思う。よって悪を悪として国民の前に披瀝し国民に問い、さらに陛下の神聖なる御裁判を待ち、はじめてここに真の天皇の御裁判があると確信する。もちろん私は日本人であるから、国際的に日本を不利に陥れるようなことは申上げない」と公開を裁判長に迫ったが、遂に公開禁止となって、その日の公判は終了した。

 公判闘争を覚悟していた三上君は、もともと中学時代より弁論部にいた雄弁家であり、性格的にも強い男であって、公判前に熱心にメモを作り、裁判官に注文をつけて自分の方から積極的に法務官の質問以外のことをも、闘志満々としてあれを拉しこれを捕えて罵倒し、自分の主張を通さんと熱弁を揮った。休憩時法廷出入りの際に、自分は三上君の背中を突いて「オイなかなかやるの──」といってイタズラをやると、彼は 「なにか──ウンやるさ──」と目をギロリとさせて振り向く。黒岩君も三上君と同様闘志旺盛な剽悍な激情家であって、これも公判闘争組なので、「三上がやっとるぞ」という意味で自分は時々靴で黒岩君を後からコズくと、黒岩君は前を向いたままカカトで蹴り返してくる。

 刑務所に帰ってみれば支那勤務の浦辺君より先に注文しておいた大きな硯が届いていた。これで墨を一度に沢山磨って字書きをやるのに便利を得た。

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