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5・15事件(一海軍士官の青春) 21

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 4月 5日(木)20時33分36秒
返信・引用 編集済
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著


    第3章  東京軍法会議


   5 求  刑


 古賀君のいわゆるざん悔録といわれるものは、大略次の通りである。

 (一)吾人は小学校以来教育勅語はよくわかった積りでいたが、今回の事件を経てその意味が体験的にはじめてよくわかった。吾が国はそもそものはじめより皇室中心に一大家族として発達して来た国家である。従ってその間の関係は血縁の間柄であることともに、君臣の関係もまた本質的に一である。日本精神とは実にかかる関係から生れてくるものであり、教育勅語の教ゆるところである。思想政治経済をはじめ凡ゆる方面において、この日本精神を実践的に生かして行くは、吾々日本人の唯一の生き方である。

 (二)親子の関係は愛と理解を本質として、その間相互に対立的な何ものでもない。仮に不行跡な兄弟があり、子供があったとしてもこれを打倒排除しようというような破壊的な気持は起らない。すなわち家庭を貫く精神は大慈悲の心であり、破壊に非ずして創造である。破壊を説く者は日本精神を理解しないものである。

 (三)かくの如く考えて来て自己を省るに、果して自己は実践的に日本精神に生きて来たといい得るであろうか。口に誠を説くも、実践においてその異なるにおいては、身を以て不誠を説くものである。自己の過去を反省し、思うてここに到れば、背に冷汗の下るを覚える──鳴呼吾過てり。

 実践的生活の出来ない者がどうして陛下のよき赤子たり、よき同胞たることを主張する資格があるであろうか。吾々は真先に自己完成をやらねばならない。これがそのまま家庭の完成であり、日本の完成である。道は脚下に在る。教育等凡ゆる方面において腐敗堕落し、一刻を猶予せば亡国の外なきものと考え、一命を犠牲にして救国の大義に殉じようとして来たのであるが、今静かに考うれば、いずれも自己の体験によった現状認識ではなかった。況んや悪いものを破壊すれば書きものが出来るというような考えで今日に到ったことは、何とも申訳けない。破壊が根本的に日本精神に反するものなることは右の如くであるが、さらに破壊は人の心に対立的感情と憎悪とを植えつけ、社会に不安を呼び起すだけでこれによって社会に平和をもたらすことは出来るものではない。これではせっかく社会を救わんとして立ちながら、社会を毒することとなる。真に社会を救わんとする道は建設的努力の外にはない。建設的努力は決して観念的なものであってはならぬ。いかに完成された議論でも、結局議論としては一面観的たるものとなりがちであるのみならず、救わんとするものは現実に存する社会であるから、それが観念論的なものである限り社会を救う所以ではない。否、却ってその声によって社会不安を増すに役立つのみである。要するに今後吾々の行く道は大慈大悲の創造的努力の外にはなく、しかも遠きに道を求めず、現実に自己の生活の完成によって進むべきであると信ずる。これが日本人としての吾々の真の生き方である。

 八月二十八日定刻開廷。法廷には一万五千枚に上る予審調書がうずたかく積まれ、その後方にはピストルその他の武器をはじめ二百四点の証拠物件が箱や袋に入れて堆積されている。

 開廷とともに三上君起って、去る二十三日の公判で一もめした古賀君の──吾過てり、吾過てり──の手記につき発言を求め、二つの補足をしたいとて、

 三上「第一に日召に関する件、五・一五事件の首魁果して日召なるや。日召は断じて首魁にあらず。吾々も日召も同じ信念を以て同志一如の立場にある。彼は早く吾は遅く、その決行の時期において差異あるのみにして、私をして五・一五事件の首魁が何んであるかをいわしむるならば、首魁は被告全部である。昭和六年七月、私が運動の一員として参加せる当初より、私の秘めたる胸の中には日蓮のいわゆる──吾れ国の柱とならん──の境地と同じく──吾れ運動の首魁たらん──との決意に何ら動揺はなかった。第二に古賀の現在の心境に関する獄中手記は、人間古賀の気持から宗教心の発露であり、手記中の、吾れ過てり、の一句も決して過去の行動精神を全面的に否定するものでなく、日常生活に繰り返される一種の祈りである。吾吾はもちろんうぬぼれて志士と称し、国士として自ら任ずる如き名聞の徒ではない。吾々は断じて非合法直接行動のみを謳歌するものではない。ただ事件当時における国家の現状から、王政維新の唯一の方法は、捨石としての吾人の直接行動以外にないと確信してこの挙に出たもので、海軍軍人として軍紀の重きこと、日本国民として国法の重んずべきことは万々承知であります。──吾過てり──の獄中手記を以て吾々の心境を総括的に律せられることは、忍び難いことであります」

 と力強く主張し、さらに先に弁護士より申請した証人や、草刈少佐の遺書取寄せが却下となったことを不満として、

 三上「却下の理由は、この会議(ロンドン会議)そのものがあまりに国辱的だというにあるかも知れないが、将来を戒めるため、国家百年の大計のためには、ある程度の犠牲もまたやむを得ない。もし万一なお海軍の認識に欠くるものありとせば、吾々が五・一五事件において敢て執らなかった割腹を、私から彼らに要求したい。草刈少佐の迷える霊とともに吾々は彼らをにくむ」

 と一時間余の熱弁を結ぶ。

 高法務官この時厳然たる態度で、

 高「本件を審理するに当り、裁判長をはじめ裁判官一同が終始公明正大の精神で一貫していることは、特に言明する必要のないことである。これから証拠調べに入ります」 と証拠調べに移らんとすれば、塚崎弁護士再び古賀君の手記問題について裁判長に対して質問、さらに古賀君に対して手記作製の順序、大角海相が議会で同手記を朗読するまでの経過を質せば、

 古賀「原本は二百二十頁で、これは後になって心境の経過に過ぎないからと思って昨年六月七日一字もわからぬように破ってしまった。写は五十九頁、すなわち昨年一月六日までの手記から抜萃したもので、その後の百六十頁は現われていない。私は事件の計画者としての失敗、川崎長光を犬死せしめたこと、牧野をやらなかったこと、革命運動の矛盾観、その他過去の未熟と思うことを徹底的に反省してみようと思って書き始めたが、だんだん書くことが変って来たので引きさいたのです。昨年一月二十三日、刑務所長が借してくれというので貸してやると、そのまま法務局に出して各鎮守府の教育資料に印刷するとのことであったので、個人としては差支えないことを返事した。二月一日になって貸した部分は返って来たが、二月中旬東京地方裁判所の予審判事から取調べを受けた際、大角海相が帝国議会でこれを読み上げ、芝居じみたことをやったと聞かされ、いやしくも海軍大臣たるものがその性質をも確かめず、当人の了解をも得ずに軽卒に議会で読むとは怪しからぬと、内心憤りを感じました」

 と手記の発表の内幕をさらけ出す。

 高法務官再び証拠調べに移らんとすれば、今度は黒岩君起ち上り、

 黒岩「ロンドン条約に対する国民の疑惑は請訓実に海軍省が賛成し、軍令部が反対であり、海軍部内の財部派が条約賛成論者であったことから生ずる云々」

 と述べ立てれば、山岸君乗り出し、またもやロンドン条約問題を持ち出し、いちいち専門的意見をトウトウと述べ、あまりに機密に触れるので裁判長から小声で注意され、やっと戦術論を打ち切り、

 山岸「吾々は罪を軽くして下さいなどとはいわない。ただ吾々の行動を妄動だとされては死んだものも浮ばれない。古賀の変態的心境の手記を古賀の取調べの際に読まずして最後に読み上げ、全被告の現在の心境の如く取扱うに至っては沙汰の限りである。ここにも吾々の真意に対して圧迫が加わっている。忠臣草刈少佐を生かし海軍を刷新するのは、裁判長の忠誠心に待つ外はない。腹を切る術を知らずして未来の提督たらんと願うようなことがあってはならず、来るべき日米戦争に捨てらるべき命をこれに先だって捨て、以て国家刷新のため裁判長の英断をお願いするのであります」

 と。午前はこれで終り、休憩後、午後一時三十分再開。

 冒頭に塚崎弁護士起って検察官に疑議を質した後、清瀬弁護士の証拠提出に入り、第五十八議会の速記録──昭和五年四月二十六日の故浜口首相の答弁──その他を証拠として提出。同弁護士は先づ第五十八議会で故浜口首相が述べた──国防の責任は議会に向って政府が取る──の一言を取りだし、あるいは当時軍令部長たりし加藤寛治大将が文代議士に与えた文書を証拠として提出し、加藤大将が証人に立ったのと同意義を持つことを力説し、高法務官及び山本検察官と軍機問題につき応酬し、結局許されて、議会速記録を朗読。林弁護士起ち、第六十四議会における内田信也の質問、大角海相、荒木陸相の答弁を読みあげ、速記録を証拠に提出。さらに政党財閥特権階級の腐敗堕落を説明したいとて、牧野内府、徳川某氏主催の舞踏会、上海事変に対する外務省の態度等を論難した後、いわゆる宮内省怪文書、パリ不戦条約問題に関す頭山満翁の上奏文の写や、若槻礼次郎、永井柳太郎、五来素川及び院内第一線同盟等の所論としてだされた小冊子「ロンドン会議と統帥権問題」を提出。さらに反条約論としての「米国の脱帽」その他本多熊太郎氏や南郷次郎氏の著書数冊を提出し、却下となった本多、南郷両氏の証人訊問に代えると結んで、この日は遂に証拠調べに入らず、午後四時三分閉廷。

 翌二十九日定刻開廷。塚崎弁護士は被告らの事件決行の重大動機となっている農村の疲弊を立証するためと、昭和五年以来の農村の統計表を提出。稲本弁護士も農村の高等小学校に在学中の十三才の少女が同弁護士宛に出した減刑嘆願の手紙をはじめ、農村の一婦人が女手一つで減刑嘆願の署名を百四十名分も集め、被告の皆さんに麦湯でもあげて下さいと現金二円を贈って来た事実などを挙げて減刑の投書を提出。福田弁護士は全国の陸軍諸将星から来た減刑嘆願を提出、別に一万人の署名ある減刑嘆願書が弁護人の手許に来ていることを述べ、九時三十分ようやく証拠調べに移る。

 事件当日麹町憲兵分隊に於ける決行組各被告の自首調書、首相官邸実地検証調書、犬養首相死体検案書、首相官邸の検証図その他襲撃個所の検証調書、その他一切の事件に関する証拠物件を証拠として採用し、午前は終り。

 午後一時再開。予審書の証拠調べに入り、川崎長光の調書内容読聞けのところでは、川崎が西田に続けさまにピストルを六発射って二階を駆け下りようとすると、西田が追いすがってつかまえるのを振り放して階段を駆け下りたが、今度は西田の妻が階段下で大手を拡げてつかみかかるのを振り払って、足袋はだしのままピストルを手に待たせていた円タクに逃げ込む場面を展開し、単調な証拠調べの後に一脈の緊張を与え、二時十五分休憩。少憩後犬養首相の殺害現場にいあわせた犬養健氏の仲子夫人の調書では、外の騒ぎがひどくなるので保彦(子息)を家に連れて行こうと便所の前までくると、父は何ごとじゃといいました、暴れ者が来たようですと答えたが、その時勝手口が危いから締めろという声がして云々──を読みあげ、さらに首相附女中の調書に、陸海軍士官は私どもを助けに来たのだと思い、しかし候補生が女中部屋を蹴破るので助けに来たのにしては少し乱暴過ぎると思いました、首相のいる客間でピシッピシッと音がするので、士官の方が悪漢を捕えて懲しめているのだと思いました、客間へ入って見ると首相が突伏しているので、顔を上げて見るともう白眼、旦那様、とすがりつきました──など、事件の渦中の女性の心理を物語る事実が読みあげられ、新たなる感激が起る。事件登場人物の調書読み上げその他の証拠の披瀝ありて、高法務官各被告の承認を求め、なお高法務官はこの際被告から有利な証拠があるなら申出るよう尋ねたが、誰一人申出るものなし。山本検察官及び予審の供述と当法廷の陳述の喰い違い問題を質せば、各被告とも公判廷の供述が真意なる旨誓い、長時間にわたる証拠調べも終了。七月二十四日以来度を重ねること十九回に及ぶ事実調べはようやく結審、次に来るものは九月十一日の検察官の論告求刑である。

 八月三十日公判休廷。浅水特別弁護人、林弁護士面会に来る。次に来る論告後の両弁護人の弁護に当って、被告との連絡であろうが、自分としては何も取り立てて言うべきものもない。翌三十一日、級友山本、宮本両君が面会に来たので墨や唐紙を無心する。九月一日は級友小林、柳両君来る。

 公判で殆んど毎日法廷に連れ出されて約一年半前のことをまざまざと繰り拡げられ、あるいは感激、あるいは冷汗をかき、休憩時には大庭君と雑談し、昼食は特別に誰か差入れてくれたか知らぬが御馳走を喰い、被告人としては割合に活動的であったが、八月三十日より九月十日まで休廷となり、ようやく元の静けさに帰り、面会人が来る外は毎日の仕事はやはり手習いであり、それか級友達に筆墨等の無心の手紙書きくらいである。五日には土井、若杉両級友来り、さっそく小野道風玉泉帖、藤原佐理真蹟帖を無心する。翌六日は先に来た山本君に無心した毛センが届き、その用品は天下第一流の書家であるが、書くところの字はあいかわらずミミズがはい廻ったようなものである。それでも毎日を楽しく送ることが出来るのでありがたい。保留されていた手紙を許されて披見すれば、級友浦部、清水、従弟茂行からのもので、別に今まで保留されなければならぬ性質のものでもなさそうである。従弟からのは自分には不必要になった海軍の軍服の無心であるが、これは始末した後で、後の祭りだと返事を出す。級友土井君には手紙を書いて振替用紙を封入、印版及び外に読みたき本二冊を注文する。連日秋晴で房内の生活も気持よい限りである。

 九月十一日、公判。本日は検察官の論告求刑の当日である。定刻開廷。裁判官の背後には海軍の将星二十余名、山田法務局長、八並司法政務次官、木内、市島、佐野各検事、陸軍の将官数氏並びに陸軍側弁護人平松、角岡、山田氏等の特別弁護人が居並び、冒頭塚崎弁護人は一中学生から送って来た麻のハンカチに血書した減刑嘆願書をはじめ朝鮮同胞四十七名から特に寄せて来た連署の嘆願書、さては貧者の一少女から、お国のためにやった兵隊さん達を殺さないで下さい、私が働いて少しずつ蓄めたお金です、どうぞ兵隊さん達に好きなものを買ってあげて下さい──と金一円を添えて無邪気に訴える童心の嘆願書を塚崎弁護士は涙とともに披露すれば、被告一同涙をふき、山岸君の如きはクスンクスンと泣きだす。次いで高須裁判長は被告に起立を命ずると、山本検察官は自席に立って徐ろに口を開き、「本職の論告は相当長時間にわたるから、疲れたら着席を許されても差支えありません」と温情を示し、左の如き論告文をひもどき、序論において事件の重大性を述べ、この時高須裁判長は「腰をおろしてもよろしい」と静かに告げたが、被告は誰一人着席するものがないばかりか、小ゆるぎさえしない。次いで動機観察に入り、被告らの精神を生かした後各被告の認識不足の点を指摘し、一段声を励まし被告らが法廷において往々上官侮慢にわたる不謹慎な言動があったと痛論するや、三上、山岸両君はギョッと検察官の顔を睨み、それから被告らの交友関係思想上の影響に入り、故藤井少佐を本件の主動者と断じ、上司を難じ政治域に進んだ被告らの言動を遺憾とし、非合法暴力行為を排し、さらに司法官としての国法守護の天職をつくすべき断乎たる所信を披歴し、赤穂義士処分に関する荻生徂徠の説を読み上げる。検察官はしばしコップの水を飲み、声をしぼり法律論を進める。かくて最後の情状論を述べ、しわがれ声をもって決然として別項の如き求刑をした。時に午前十一時十九分。裁判長休憩を宣し、被告一同粛然として退廷。


(140頁01行~146頁下段12行)



〔写真〕

「五・一五事件」海軍側求刑
(昭和8年9月12日,東京毎夕新聞)

 
 

5・15事件(一海軍士官の青春) 20

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 7月 1日(木)14時10分47秒
返信・引用
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著


    第3章  東京軍法会議

   4 大道即一身 -後編-

 八月二十三日。この日は十被告最後の人、最年長者の塚野道雄君の陳述である。野村吉三郎横須賀鎮守府長官、東京湾要塞司令官、木内、岸木両検事の特別傍聴者の顔が見える。塚野君はロンドン条約に憤慨して吉田松蔭の名で檄文を出した男とは思えぬ程物静かな調子で、両親、妹、妻並びに二児あることや経歴を述べた後、相被告らとの関係に及び、

 塚野「昭和五年五月末ロンドン軍縮会議について私は書田松蔭の名で檄文を印刷、海軍部内の士官に配布し、謹慎二十日に処せられましたが、呉鎮守附となってから檄文の張本人が私であると知って毛利福太郎、永田英雄の両名が藤井斎と文通をするよう橋渡しをし、同年七月病気で帰国の当時藤井が一回訪ねてくれたが、今では顔も覚えていない。古賀は予審廷で、中村は公判廷で初対面をした。伊東亀城には会って見たくなり、佐世保で会い、彼から独持の戦術を聞いてコイツは一番過激派だと思いました」

 と傍聴席を笑わせる。高法務官は日蓮主義と国家革新運動との関係について訊問を進むれば、同君は急に熱をおび、

 塚野「人類の救済衆生済度を徹底させ、現世に絶対平和郷を実現させるにはどうしても世界の単位たる国家そのものについてブッツかって行かねばならぬ。世を安じ国を安んずるを以て忠となし孝となす。世界の絶対平和を念願するのが真の忠孝で、日本を正義とし霊化し、しかして現世界人類を救済するのが日本の大使命であります」

 と日蓮主義と日本の使命とを論じ、次いでロンドン条約当時の檄文問題に入るやいよいよ熱烈となり、当時呉鎮守府長官谷口尚真大将が朝鮮で財部全権に会った問題につき、

 塚野「私が呉海兵団で檄文の配布を終った翌日の、昭和五年五月二十日、谷口大将は士官を集められ──自分は財部全権と会ったが大将も深くロンドン条約について心配して居られた、吾々はロンドン条約問題では極力黙って居らねばならぬといわれた。谷口大将も間もなく予備役になられると聞きそのくらいが適当だろうと思っていたが、突然加藤寛治大将の跡を襲って軍令部長になられたので私は不審を抱き、海軍には毒が流れていることを感知しました。殊に時の朝鮮総督府斎藤実氏は、海軍には何ら責任のない地位であるに拘わらず、ロンドン条約の諸訓案について真先に堂々反駁の意見を新聞に発表されたことなどは怪しからぬことで、財部、斉藤、谷口はいかなる相談をしたか知らぬかが、政党の戦術の巧妙を極めているのに感歎しました」

 と述べ、五・一五事件のため斉藤実氏が大命を拝受する第一着にこれを訪問したのは財部大将だったことや、斉藤、民政党、三菱、海軍、財部等の関係を述べ、
 塚野「これを以てしてもロンドン条約のいかなるものであったかが判るのであります」

 と、感極って声を震わして泣き、ハンカチを出して涙をぬぐいながら述べ立てる。

 塚野「そもそもロンドン会議の軍令部案というものは、吾が最低要求であったはずであります。米国と戦うに戦闘艦が何隻、潜水艦何隻要るかは、断じて吾々の独壇場で、それを戦争のことを何もしらぬ幣原にしてやられてしまった。洋服屋が某将官のことろへ往って談たまたまロンドン条約のことに及んだところ、某将官は──こんな時に余計な口を出すもんじゃないよ、へらず口をたたけば首をチョンぎられる、長いものには巻かれろじゃ──といわれたと私はこの洋服屋に聞いた。翌日堪らなくなって檄文を起草した。士官名簿により宮様と元帥を除いた大将から中佐級まで一千通宛名を書き、郵送しました。
 と涙で鼻をつまらせながら述べ、十時十五分休憩。

 少憩の後再開。

 塚野「私はテロと国家革新運動との関係がどうしてもわからず、当公判廷の各被告の陳述ではじめて判りました。それに私は慎重な研究癖があるので、電報一本では命を捨てることは断じて出来ません。林にはほれ込んでいたが、テロで林と心中するのはいやだという気持で、後で運動に参加するかも知れぬが、やるなら最後まで責任を持って建設までやらねば嘘だと思っていました」

 と不参加の心境を明らかにし、高法務官は予審調書を読み──家族が餓死するから決行には参加せぬ──と林に語ったことを尋ねると、その家庭事情が不参加の要素であったと認めたが、結局──国家革新の精神においては同志だったのです──と本件における自己の消極的な立場を明らかにし、そのピストル調達や武器保管のことを述べ、五月二日林から決行のことを聞いた時──他人ごとのように思った──と当時の心境を述壊。

 高法務官「予審では誘われれば行くくらいの気持だったと述べているが」

 塚野「予審官としては無理のないことで、こう言わせようとして苦心され、私は参加するということは誰にも絶対にいった覚えがないと頑張ったが田中智学師の──便所は分別所──といった言葉に随って便所に入り考え直して、まあその辺のところでしょうと述べて置いたのです」

 と予審の陳述が真意でなかったという。正午休憩。

 午後再開。手榴弾を林から依頼されて隠し、東京輸送の手伝いと岩垂君を林に紹介したことなど、事実調べが終って高須裁判長の問に、
 塚野「日本壮丁の八割を占める農民の土台をしっかり固めなければならぬ。この土台の上に新らしい建築をしなければならぬと思う。私自身百姓となり、農業を体験して国家のために尽したいと思っています」

 と帰農の決意を述べ、補充訊問に入ったが、当法廷に於ける陳述は塚野君を有罪か無罪にするかの分岐点となるため山本検察官はかなり細かく突き込み、清瀬弁護士も助け舟に出て、検察官と交々論議する。清瀬弁護士は高法務官に向い、

 清瀬「古賀から林に来た手紙では、塚野を決行の第三組に入れてあったことは塚野のために重要なことであるから明らかにして置きたい。お調べは大体縦に行われて横に調べられていないから、この点林、古賀、村山、大庭、黒岩の各被告についてお確め願いたい」

 と裁判官に抗弁すれば、裁判官より以上の各被告に問い質され、それぞれ起って、塚野君は結局実行部隊のメンバーでなかった事実を明言する。

 高法務官「これで全被告の訊問を終ったが、古賀に二、三訊くことがある」

 とて、大川周明博士から受取った軍資金の使途をいちいち確めた後、

 高「被告は獄中でざん悔録とも見るべきかなり大部の手記をなしているが、今の心境はこの手記──この手記は今春の議会に海相が報告として一部を議会で朗読したものである──そのままかと問い質し、

 古賀「事件後の六月半ば頃までは大川、陸軍青年将校、長野朗の農民請願運動等の連中が続いて改造運動断行をやると思っていたが、そのうちに私の牧野内府射ちもらしが四面楚歌となり、また西田税暗殺を頼んだ川崎長光がいやだいやだといってやったと聞いて、私は非常な精神的の打撃を受けた。かくて七年の末私は反動的心境になり、過去の行為は総て誤りである、悪である、その立場から認めたものがすなわちこの感想録であります。今日から考えてこの中には其のものもあり、反動的のものもあるが、本年四月頃(昭和八年)よりそうした国家革新運動の如き根本問題は、宇宙の実存や人世の本質等哲学的根拠から出発せねばならぬと考え、いろいろ考えて見たが結局何が何やら判らなくなり、不可解な懐疑の暗黒に入ってしまい、現在においては然りであります」

 と魂の煩悶を正直に訴える。高法務官は古賀君の確固たる哲学的基礎なくして国家改造に乗り出したことを悔いる意味のざん悔録を読みあげ、これを質せば、古賀君は黙々としてこれを認め、最後に古賀君は海軍に対する所見は文書にして提出するが、あいまいな点を補足したいと、大川周明氏は特権階級と提携して幕末の公武合体を意図していたと断じ、橘孝三郎は古賀が兵農一致を説いて勧誘したのに感激して参加したものであり、橘の満洲行は再挙を計るというよりも満洲の農民に帰化し、満洲国の農村建設につくす積りであったので賛成したのだと新事実を明らかにし、また陸軍士官候補生を加盟させたのは、とにかく陸軍の軍服を着た者を入れて陸軍の改造断行を誘致し、陸海共同責任をもって提携する意味であると述べ、

 古賀「牧野内府を殺さなかった根本的の原因は、私に計画者としての力量足らず、私は艦長としての役目は勤まるが、司令官の器でなかったので、計画の粗雑、連絡の不充分、心境の不安等のためであります。また警視庁前の決戦というのは、あの附近ならば恐れ多いことながら宮城に近いので、戒厳令誘致に効果的であり、また一般民衆に被害を及ぼすのが少いと考えたからであります」

 と補足して、計画者としての最後の陳述を終った。

 いったん休憩。午後三時半再開。浅水特別弁護人起って、さきに述べた古賀君の手記に対する感想は現在の感想か否かと問えば、古賀「先程あの手記を認めたのは、大慈大悲の立場からはかく感ずるという意味で、かかる心境を通って来たことを認めたものである。私という人間が大慈大悲の価値あるものではない。人間として現在の私の考えは違っているところもある。現実の向上の点などそれであり、吾過てり、過てりの一段は、反動のもっとも甚しいもので、現在の私の心境は当公判廷でかつて申し上げたのが本当であります」

 かくていよいよ証人申請に入り、元ドイツ大使本多熊太郎、予備役海軍少将南郷次郎、海軍大将山梨勝之進、海軍少佐浜田祐生、同中尉山本利夫、血盟団井上日召を証人として、草刈少佐の遺書を証拠書類として申請せるも、結局全部却下この日はこれで終了。

 監房に帰れば故郷の父より来信、病気している由。翌八月二十四日父に手紙を書き、見舞金として十円送金する。二十五、二十六、二十七日公判休廷。これ幸いとばかり毎日習字をやる。二十七日係弁護士林逸郎氏面会に来るも別に何ということもなく、雑談十数分にして別れる。
 

5・15事件(一海軍士官の青春) 19

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 7月 1日(木)13時38分56秒
返信・引用 編集済
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著


    第3章  東京軍法会議

   4 大道即一身 -前-

 十三日、十四日と公判は休みとなり、毎日傍聴していてもなんだかある程度疲れを覚える。十三日は一日房内でゴロゴロと何もせず過し、十四日は朝から字書きを始め、画仙紙に自作の詩を二十杖くらい書く。久しぶりに落ちついた気持で書いた故か、今日のは割合に出来ばえがよいようである。

 八月十五日、反乱罪の連中の訊問は既に済んで、本日は反乱予備罪被告伊東亀城君先ず立ち、井上日召の破壊哲学なる無組織の組織について述べたいとて、一身同体、同志一如論を述べ、「日本はあらゆる方面に行詰り、一時的弥縫策では許されぬ情態で、これが打開の具体的運動には、わけのわからぬファッショ団体、それに労働者、農民団体、共産党などすべてを一括して無組織の組織として次から次へと爆発し、破壊を完成するのである」と論じ、故藤井少佐については「人格的思想的に影響はうけた。しかしドンキホーテ的の誇大妄想狂的の大アジア主義の感化は受けていない」。橘愛郷塾頭について「彼は隣人愛に立脚し、直接行動など出来ぬ神の子みたいな男だとばかり思っていたが、積極的に尖鋭化しているのを当公判廷ではじめて知って驚いた。これは佐世保組の認識不定であった」、大川博士は「撤頭撤尾排撃すべき民衆の敵」と論じ、井上目召については「彼は一片の私心なく人情に富み、私が由井正雪の故智にならった帝都火災案を出した時に──貴様は冷酷のケダモノだ、吾々は民衆を救うのが役目だ──とさんざんに怒られた。また私は新戦術として警官刑事その他支配階級の番犬を殺すのは少しも気の毒でないと言うと、日召は──彼らも妻子を養っている一人の民衆だ──と諭された」と礼讃。ロンドン会議の時、藤井君と二人で海軍省に山梨次官を訪ね、統帥権に関する御高説を伺いに行くと、職権をもって追い返されて行くところがないので権藤成卿を訪ねた、と権藤を知るに到った動機を述べ、出身地が青森県だけに東北の「飢饉風」などにつき故郷の実状を語り、平均四年に一度見舞う東北地方の飢饉が革新運動加入の動機をなしたことを陳述。休憩後再開。権藤成卿方裏の空屋の重要会議において、伊東「四元義隆が古賀と中村に対し事件決行の時は霞ケ浦航空隊から飛行機及び爆弾を出したらどうかと提案し、一同賛成し、紀元節テロ実は私が提案したのだと記憶するが、政府高官が宮中祝賀会から退出の時に遊撃し、水交社においては財部、岡田、谷口三大将が祝賀会に出席するからこれも殺すことを提案、賛成を得た」。警視庁を襲撃のために下検分に行き、特高課長から詳しく武装の貧弱なることを聞き出して、襲撃容易と思ったと述べ、上海で負傷し護送されるに当り、大切に股間に手榴弾を隠して内地に帰り、佐世保病院にて林に渡したことなど述べて昼の休憩となる。

 午後一時十五分再開。伊東は佐世保病院で、四月十日、林から古賀の手紙を見せられ、農民軍決死隊や大川軍のことを知った時、「中央にいる古賀が錯誤に陥っていると思った。農民は米がない飢饉の時は稗でも何でも喰い、なかなか起たぬものであり、古賀は人を信じ易く、大川などを信じたのかも知れないと思ったからだ。私は──独得の新戦術──をやろうと主張し、病院を抜出して決行に加わる積りであったが、決行三日前に病院に林、大庭が来て、中央でも古賀と山岸の間に時期的に意見の相違があり、林が工作して時期を延期させることを相談した」

 高法務官「帝都で事件が決行されたことをいつ知ったか」

 伊東「号外を見て知った。戒厳令が布かれるであろうと書いてあった。むろん古賀らの同志がやったものと思った」。

 高「その時の感想は」

 伊東「号外には憲兵隊に自首とあったが、これは憲兵隊襲撃の誤報であると思った。そこで私は大庭と会い、今後の計画として、大庭は某国大使と財部大将を、私は某国領事と事件担当の法務官を、今後の見せしめのため撃殺する決意をした」と第二次計画をいい放って高法務官を苦笑させる。高法務官は伊東のいう「無組織の組織」について、爆発破壊後の結果はどうするかと訊問すると、

 伊東「私は破壊のみで建設は考えなかった。あらゆる革命において最後の決定を与えるものは武力である。しかし陸の上では海軍は駄目だ。宇垣一派が爆発すれば荒木一派が次に爆発するだろう。これが無組織で、建設は権藤か誰かがやってくれることであろうと思っていた」

 と答え、高須裁判長現在の心境を質せば、

 伊藤「吾々の如く頭から法を無視し軍規を破壊した非合法運動を起すようなものを出すに至ったのは、これはなるようになったのである」

 将来の覚悟について「いささかなりとも君民一如の近づくのを望んでいる。経済組織や制度が変っても人間の心が変らねば駄目かも知れぬが、そういうことは万々承知の上である。今後といえども君民一如を妨げ、私利私欲を図るものあれば、やりたくないことではあるがまたやるようになるかも知れない。吾々は親も捨て兄弟も捨て行動したのであるが、このため私利私欲のみ図る支配階級の猛省を促し、君民一如の国家になればそれ以上の望みはありません」と述べ、次いで補充訊問に入り、林弁護士よりマルキシズムと日本の国体のことなど二、三質問の後──伊東少尉が日召に対し、個人テロをどうしてもやる場合には谷口大将だけは私に残して置いてくれといっているのは何の意味か──と質せば、
 伊東「谷口大将は軍令部長になってからロンドン条約実施後の吾が海軍の立て直しについて軍事参議官会議に案を提出し、これでは駄目だと突返され、またやり直しては突返されるなど、国防に対しまったく無責任であったのと、一つには事なかれ主義で、戦争をするのに弾丸はなくても大和魂で、戦をするなどと、めちゃくちゃなことをいっています」と谷口大将をこき下し、次いで清瀬、福田両弁護人からも質問あり。午後二時十七分閉廷となる。

 次回は八月十七日、反乱予備罪被告大庭春雄君の番。大庭君は吾々海軍被告中の最年少者である。他の被告同様大川博士を攻撃し、井上日召の人格に魅せられ、その破壊哲学に共鳴し、国家革新の考えを抱くに到った動機について、 大庭「親爺の任地の関係で小学校を四度も転々している問に、すこぶる不親切な教師に出会い、中学校でも教育に関する不満から転じて為政者を非難する気になり、教育刷新、人物養成を考えるようになったこと、第二は兵学校時代に起った南京事件の外交の不振、第三は藤井との接触、これが決定的のものでした」

 次いで浜勇治君の家に武器を預けに行ったが浜君は留守で、妻君に大切なものだからと預け、浜君を外国語学校に訪ねて事情を話したところ、浜は迷惑そうな顔をし、この中の一丁は菱沼が団琢磨を暗殺暗殺の時に使用し、他は全部没収され、昭和七年二月末佐世保駆逐艦楡に乗組み、上海事変に後方連絡のため出動し、上海佐世保問を五回往復、三月下旬佐世保海兵団の林より、上海の三上から手榴弾を受取って来いといわれ、村山を通じて手榴弾二十個を預かり、手榴弾は木箱に入れ、表には──壊はれもの御用心──と書いてあり、ピストルも同時に受取り、手榴弾は三月二十七日佐世保海兵団の林の部屋に運び、私自身もこの事榴弾を投げて帝都を撹乱する積りであったと述べ、佐世保滞在中は出来るだけ時間を作って林と会い、中央からの連絡によって相談した。五月五日塚野大尉の官舎で開かれた佐世保組の向背を決する最後的協議会の模様を、

 大庭「元来自分は即行論であったが、その場の鈴木四郎の反対論並びに古賀忠一の尚早論に引きずられ、その後中央からいよいよ決行の連絡あり、いろいろ情報に変化ありて苦慮し、最後に林より上京して一週間の期限付延期を中央に勧告するようにいわれて上京を決心し、伊東はやる時は病院からかつぎ出してくれといっていました」

 と述べ休憩。

 午後再開。艦長藤田少佐より喩が入渠後、すなわち十六日から休暇を許されることが決行前日の十四日に決ったので、十六日出発する予定でいたが、十五目に中央で決行してしまった。当日午後八時頃新聞社前の張り出しによって事件を知り、それより塚野の官舎に行き、林を探したが居らず、古賀忠一、塚野両君と官舎で相談しているところに夜おそく林がのそっとやって来、拳銃を天井裏に隠し、同夜深更鎮守府に呼び出されてそのまま拘禁された経緯を述べる。

 高法務官「何かこの際いうことがあるか」

 大庭「ありません」

 といい切り、高須裁判長よりの感想、現在の心境及び将来を問われて、

 大庭「当時破壊した後をどうするという成算はなく、戒厳令誘致について十分な自信はなかった。古賀の計画も首相官邸の外数個所を襲うものと莫然と知っていた程度で、変電所襲撃は知らなかった。過去のことを一言にしていえば、かかる破壊行動では国家革新は徹底し得ない。結局教育を以て国民を根本より自覚せしむる外ない。刑期を終えたらさらに忠君愛国の誠を致そうと思うのみであります」 弁護士の補充訊問の後閉廷さる。

 監房に帰っていよいよ明日は自分の番であるが、今までの公判の様子では、何から何までいちいち予審を操り返すようなものであり、公判廷でも何もいうことはない、一切は天の裁断に任かすと一言いって終る積りであったが、そうはいかぬ。問われるままにありのままを述べることにしようと一応記憶をよび起してみた。

 八月十八日、定刻開廷。裁判長より林と呼び出されて陳述台に立つ。型の如く高法務官より身許、経歴について調べがあり、故藤井斎君のことに及び、藤井は知り合った当時は誇大妄想狂的な男と思っていたが、その後燃ゆるが如き熱情と不撓不屈の精神の所有者であることを発見し、三上は話せる落ちついた男であり、その外の被告との事件前における関係を率直に述べ、塚野道雄君について、

 林「昭和七年二月塚野が海兵団に病気上りで出て来て相知り、彼はテロは考慮の余地がある、建設のことも考えねばならぬ、自分(塚野)は家庭の事情からテロ方に加われないといったので、同志獲得の世話及び後方のことを依頼したのであります」

 と、今まで他の被告が明らかにしてない点は自分の方で明細に述べ、予審調書で間違ってないところはそのまま肯定。

 昭和六年五月佐世保で井上日召氏と会見し、当時の日召観を述べ、国家革新及び直接行動の動機論に移り、

 林「私は肥後藩士族の末席を汚す家に生れ、貧乏と頑固な教育と熊本神風連の殉教的精神の感化を受け、非常な期待を抱いて兵学校に入学したのでありますが、その教育と生徒の心情は私の期待を裏切ってしまい、そこで私は自分自身で自分を磨け、肝を作れという気持になって、学課などはうっちゃらかして偉人の伝記等精神修養に関する本ばかりを読み、あるいは坐禅の真似事をして精神的に苦しみ、特に少尉時代に肺病になり、内的に非常に苦悩し、ようやく回復して海兵団に復職後──自己すなわち日本国家なり──という悟りを開きましたが、これが私の革命精神の根源であります。人間は生死を超越して大道に生きるものであり、日本本来の面目は大道そのものであり、言葉を代えて云えば神ながらの道すなわち君民一如の政道であります。この大道は世界に於ける総ての問題を解決する根源であると確信しました。最近の吾が国情を見るに、政治経済外交教育等各方面に行詰りを生じ、他の被告が申上げました通りに諸般の失態を露出し、小川、小橋、山梨、山岡等の醜類を出し、統帥権問題まで惹起しました。この根源を尋ぬれば人そのものの問題であり、人が本末を顚倒し、権力財力肉体的生命等に左右されているからであり、要するに教育の根本的誤謬にあります。今日の教育は米喰う機械と羽二重の着物を着た藁人形か、ヒョロヒョロとした底力のない風船玉的人間を製造しているに過ぎず、どうしても大道を徹見し、大道を生き抜く底の人物がどんどん出て来なければ、いかに制度機構を立派にしてもそれは外見のみにしてまた退腐して行くものであろうと思います。私の体験から申しましても、人間は生死巌頭に立つ如き一大衝撃を受けた時に、翻然として本来の面目に還るものであります。ここに於いて日本を救うものは大道に徹せる真の日本人であり、国民全体に一大ショックを与えて本来の面目すなわち神ながらの道に還らせ、本末を正すことによって日本の革新ははじめて可能であると確信したのであります。しかしながら、これがために国際的に威信を失墜するが如きことがあってはならぬと思い、決行の時期を考慮し、また大部隊を動員せんとして陸軍及びその他の団体との提携の要あることを強調しましたが、革新を全からしむるには一朝一夕では不可能であり、百年の日数を要するかも知れないと考えました」

 と大綱を述べ、さらに、

 林「吾々の実際やったことは、結果的には犬養首相一人を殺したに過ぎず、佐郷崖のやったことに毛のはえたようなものだが、吾々は単なるテロリストでもなく、否々の精神はどこまでも日本を革新することにありました。ことは失敗に終り、吾々佐世保組は意気地なしの肝の出来てない連中だと見せかけ、予審官裁判官を偽って逃げ出し、一日も早く出獄して、もう一度本格的のことをやり直す積りで居りましたが、遂に考え通りに物事はうまく運ばず破綻を来たしました──天行は健なり──との言葉通りであります。従って私の予審調書には真の私の気持があまり現われていない点があると思います」

 高法務官「当公判では本当の腹が出ているか」

 林「今度は本当のことです」

 と答え、十時十五分休憩。

 少憩後再開。高法務官予審調書によって昭和六年五月上旬林が三上と佐世保水交社で会見した時の模様を読み上げ、
 高「その時被告は三上らがどんな考えを持ち、またどんな計画をするか興味をもって見ていたと予審で述べていることは」

 林「それは嘘であります。私は当時事実上の同志として一緒でやる考えでありました」
 昨年(昭和七年)一月十四日、血盟団の四元義隆が紀元節テロ案を提げて関西九州鎮海の同志糾合にやって来た際も、これに賛成し、自らこれに参加する積りであったこと、故藤井斎君が上海に出征する直前の昨年一月二十八日、藤井と佐世保海兵団の私の部屋で会い、二月十一日決行を大局的見地より延期する意見を述べ、藤井の同意を得、後は頼むといわれ、「ヨシ引受けた」と返事をしたことを語り、さらに小沼正が井上準之助氏を打った翌々日の二月十一日、早くも佐世保海軍病院に入院中の伊東亀城君が法務官の取調べを受けた点に及び、

 林「私は翌十二日伊東を訪ねて法務官の取調べに対し、この際強がりは絶対禁物、出来るだけ嘘を言って血盟団とは離反しているように装い、もし先方に証拠があったらその罪は死んだ藤井に押しつけておけ、死人に口なしだからこれが一番よいと忠告しましたところ、伊東は大丈夫心得ていると申しました」

 海軍同志の発覚を防ぐため、故藤井君を利用したこと、中央にいた古賀君との連絡事項、小沼の第一弾以来佐世保で法務長、法務局長並びに島田法務官に調べられ、嘘をいったこと、佐世保から東京への武器輸送、塚野君の紹介で岩垂徳雄君を知り、ピストル購入を依顕し、長崎に密輸ピストルを探がさせたが入手出来なかった顚末を述べ、十一時四十五分休憩。

 午後一時十五分再開。

 林「昨年四月末、佐世保海軍病院の伊東亀城のところで山岸宏からの決行延期論の手紙を見て感を同じうしました」。

 高「大体どんな見透しであったか」

 林「私は相当大部隊を動員しなければ政府を顚覆、戒厳令を誘致することは困難であると同時に、また私の意図する国民に一大衝激を与えることも出来ないと思って、相当に大仕掛でやる積りでありました。革新の要点に就いては他の被告が申上げましたのと大同小異でありますが、特に私としては人心の刷新に重点をおき、教育の大改革、軍隊の人事行政を刷新してもらいたいと思って居りました。内閣のメンバーには差し当り吾々に近い荒木陸相、末次信正、小林省三郎民らが頭の中に浮び、一時は軍政府ということになりますが、その後のことはそれらの人々を通じてやってもらえばよく、後々のことは的確なものはありませんでした」。

 審理いよいよ決行直前になり、例の水月という雅号や正子の女名前等で古賀及び上京中の黒岩君と暗号電報を交換し決行延期を努力したことを語り、古賀君の情報でこと失敗に終ると予想し、

 林「私は国家革新のことは徒らに焦燥にかられてはならず、急がなくとも機会はあろうと考えて中央に延期を交渉し、その間に九州における陸軍同志をして中央の陸軍菅波一派を説かせ、陸軍将校団も参加させ得ると思っていました」

 黒岩君より──返済期限延期出来ぬ──と予定通り五月十五日決行の暗号電報を受取り、極力一週間延期せしむる覚悟で大庭君を上京せしむることにし、十六日上京出来ることになり──同志一名十六日タツ──と打電、大庭君上京後延期もし不可能となれば、自分は彼らを見殺しには出来ず、万難を排し上京する覚悟でその手筈を一切終了し、十五日当日は佐世保郊外の相の浦に芸者一枝と別離のために遊び、夕方佐世保に帰り新聞社前にて決行を知り、──やったか──と思い、もうこうなっては慌てても仕方なく、そのまま一枝と活動を見物して塚野君の官舎に行き、古賀忠一、大庭春雄の両君、塚野君とともに武器を囲んで協議していたが、私の顔を見るなり──ヤッタゾ──というので──知っとる、一枝と活動見て来たといえば一同アッ気にとられ、それから、ピストルを天井裏に隠し、その中に拘禁された事実を述べた。

 高法務官「この際なにかいうことはないか」

 と尋ねられ──よし、序だ、いってやろう──と思って、

 林「教育に関して些か所見を述べます。現代の学校教育は生徒本位ではなく教師本位であり、学校本位である。すなわち教師が自己の生活安定及び栄達のための仕事であり、学校の名利のためである外何ものでもない。生徒に重点を尚き、また人を作らんとする熱烈なる態度はなく、人間と人間の接触なく、魂の交流は断絶し、人格的感化は殆んどない。すなわち知識の切り売りであり、教師そのものが人間的練磨に於いて甚だ不足して居り、かかる教育は真の教育とは断じていえず、私は教育は愛なりと信じます。例を挙げるならば、倶胝和尚が弟子の指を断ってこれを開悟せしめた深愛、良寛和尚が甥を訓戒せんとして言を発する能わず、帰途草鞋の緒を涙で湿して不良甥をして翻然前非を悔い真人間に立ち返らした切愛、倶胝は冷く良寛は温く、いずれもその本は愛であります。師は弟子を愛し弟子は師を愛し、この愛の交流があってはじめて教育が成立つものであります。これを根底に制度的には中学・高等学校における外国語を全廃し、外国語は専門的に翻訳者を養成並に外交官及び特別なるものに教えればよく、他は人間陶治と日本国自身を知るために歴史教育を重んじ、その外は専門的科学教育を重視することが肝要であると思います」と強調し、さらに「兵学校時代に某教官に理想を問えば長官旗を掲げる身になることだといったが、教官の大部分はかくの如き栄達の徒であり、かかる教官に教わる生徒は栄達を望むは当然にして、下士官兵はまたこれに追随し、彼らの唱える忠君愛国は報酬的で自己の栄達を願う売買道徳の外何ものでもない。かような教育がなされている現日本は決してよくなる筈がありません」

 と、長々とこの時は熱弁を振った。高須裁判長例によって現在の必境を問えば、

 林「日本を本来の面目に還らしたいと思ったのでありますが、私自身の常住坐臥に未だ不徹底の点を発見し、この点から見て私の心境には一種の妄想があったことを入獄後悟りました。大道は遠き彼方にあらずして五尺の肉体すなわち──大道即一身──でなければなりません。よってこれから私は新らしく更生して、自分は正真正銘の人間であり、真の日本人として大手を振って闊歩出来るようにと念じて居ります」

 裁判長「将来に対する覚悟は」

 林「天命を楽んで忠君愛国の誠を尽すとともに、日本国民全部が──自己すなわち日本なり──との信念を以て、真の日本人としての日常生活が出来るように努力したいと思って居ります」

 と明言し、林弁護士より獄中作の左の二詩を読みあげ、その気持を質さす。

 一、人生尊赤血 百識乱真明  (人生赤血を尊び 百識真明を乱す)
   一剣依天断 心田開豁清  (一剣天に依って断ずれば 心田開豁として清し)

 二、截断私心独浩然 行雲流水是真人(私心を截断すれば独り浩然 行雲流水是れ真人)
   覚知三十年来夢 大道長安即一身(覚めて知る三十年来の夢 大道長安即一身)


 林「右の二詩は私が獄中で苦しんだ後心境に一転機を来たし、自分なりにある種の境地を開拓した後のものであり、五言絶句の方は開拓した心境そのものを表現したもので、七言絶句の方は自分の過去を恥じ、禅で言う大道長安に通ずという公案を引用して、その公案は飯を喰って糞をたれること自体である。すなわち山は高く谷は低いという自然そのままが道の実体であることをいい表わしたものであります」

 三時十分閉廷。自分の陳述を終り、監房に帰り、ホッとした。何ごともいわずして済ましたかった公判も、問われれば致し方なく、その中には却って熱をあげて言葉も強くしゃべってしまった。従妹島田寿子に返信を書く。

 十九、二十、二十一、二十二と公判は休廷。何ものも忘れて習字に没頭する。
 

5・15事件(一海軍士官の青春) 18

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月24日(木)10時11分22秒
返信・引用 編集済
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

    第3章  東京軍法会議



  3.首相暗殺

 公判も古賀、村山君と終って、三上君も第一日は終り、大体において彼らが言うことは大同小異であり、法廷でただ傍聴しているだけの吾々はある程度退屈を覚える。休憩時には同じ控室にいる大庭君に自分の入獄以来の所感並びに所見を話す。大庭君は非常に共鳴して来た。佐世保にいる間は事件前で自分の如きは四回も当局から調べられ、大庭君も数回呼ばれた。彼は上海との連絡船に乗艦しお互いに多忙であったため、用件のみしか話合わなかったが、今やことは終了し、相被告の傍聴で暇はあり、気持も互いに落着いているのでよく話合った。結局はなんだかんだと言っても人間の問題だ、人間的内容が練磨され向上しておらねば、ただ単に制度機構のみを変えても世の中はよくなるものではない、制度機構は着物みたようなものだ、問題は着物を着ている御本人のいかんである、自分自身が日本国なりというところに自覚して自己を探究し鞭ち、日本人としての内容充実に重点をおかねばならぬ、自分と国家が対立に立っていては駄目である、という意味のことをいろいろと尾鰭をつけて話した。休憩時に大庭君と話しているのに楽しみを覚えた。三上、黒岩両君は休憩時も特別弁護人及び弁護士その他世話をしてくれた海軍士官といろいろ相談もするようだし、なんだか忙しい様子である。三上君はやはり公判廷の花形である。

 公判第七日、小雨そぼ降る八月三日、例によって朝護送自動車で軍法会議に向う。先日に続き三上君の訊問である。先に公開禁止を宣せられて三上君は三月事件、十月事件に及び、三月事件は宇垣陸相を中心にクーデターが計画されていたが、牧野内府の「宇垣さん、止めろ」の一言で沙汰止みとなったこと、続いて同昭和六年十月の橋本欣五郎陸軍中佐を中心とする十月事件の内容を暴露し、吾々抜刀隊(海軍の吾々同志)との関係並びに小磯軍務局長その他関係者の名を挙げ、その思想的根拠はファッシズムであり不純さがある、遂にことは中途で暴露し、その後仕末で関係者が互いに啀み合うことになったと逐一舌鋒鋭く攻撃した。毒舌当るべからざるものがあった。彼にかかっては陸海軍の将星も一文の値打ちもなく、例えば海軍の谷口尚真大将の如きはシャボテン頭とどこで覚えたか仇名でやっつける始末。油が乗って滔々として弁じ立てる。この日は相当重大と思ってか、秦陸軍憲兵司令官、八並政務次官、山田海軍法務局長、松山侮軍航空本部長、東京控訴院思想係熊谷検事等が特別傍聴席で熱心に傍聴する。午前中は傍聴禁止のまま終始し、休憩に至る。

 午後二時再開、傍聴禁止は解かれる。三上君は昭和七年の上海事変から佐世保に凱旋してからのことに言及し、塚野大尉の官舎に集り準備完成のため決行を遅らせることは差支えなし、血盟団以後警戒厳重となった今日、個人テロはやめて正攻法による集団テロを行う必要あり、五月三日中央から情報々告に帰った黒岩君と武雄温泉で会い、情報を聞いてやや不安を感じ、徒らに決行の期日だけ決めても駄目だ、参加しそうな者は準備期間を与えて出来るだけ参加させたがよく、林は大体決行には賛成だし、佐世保の同志全部が参加出来るようにしたい旨古賀に伝えるよう黒岩君にいいふくめ、翌日林と会い互いに中央では決行を急ぎ過ぎている模様を話し、五月に塚野大尉の官舎で佐世保同志の会合を開き、自分より中央の動静と計画内容を話し、鈴木四郎君が「時期の問題はとにかく、オレはやりたくない」と言い、古賀忠一君は時期尚早を唱えて「十二月頃まで待ったらどうか」と言い、大庭君はやや賛成、林は海兵団の都合で中坐し、自分独りで佐世保組は第二線に廻ってもらう方が賢明だと内心思って自分の意見をいわずにしまったことを述べ、さらに呉に転勤になり、いよいよ呉在泊軍艦妙高より十三日脱出し東京に向い、出発直前佐世保の林より正子名義で「腹の工合いかん」の電報を受取ったが、佐世保組は第二線に廻す積りだったので返事をださず、十四日朝東京着、古賀君の計画を見て「黒岩に頼んでおいた檄文等がいまだ出来上っておらず、協同隊となるべきものとの連結も不十分なことなどからこれでは失敗する」と一種のヒラメキを感じたと述べ立てる。「決行後憲兵隊に行くことは自首に非ず、一時の足溜りで、そこからまたどこかに出かけるのかと思った」と型外れの陳述を平気でやり、古賀君の計画にいろいろ意見を述べたが、結局古賀君の計画通り実行したことなどを述べてその日は終る。

 八月四日、三上君の第三日日の訊問。決行日午前、古賀君より二百円もらって神田で騰写版を買い、用紙千五百枚を整えて宿舎の竜名館で即座に檄文を起草騰写した顚末を述べる。高法務官「檄文の趣旨について説明を加えることはあるか」。三上「この檄文に記した日本の各方面の行詰りは周知の事実であるが、代議士選挙の弊害、財界と政党の因縁関係、特権階級代表の西園寺、牧野の元老重臣としての輔弼の重責を軽んじ、財閥と結託し政党を左右し、自己の権勢利殖のみを計る字垣大将が政界の動揺する毎に朝鮮総督の身でありながら上京し、牧野、西園寺の鼻息を伺うなどその醜状ぶりは言語に絶する。これで檄文の説明を終ります」と結ぶ。

 いよいよ首相官邸に表組として乗込み、首相を発見して殺害に到るまでの経緯を問われるままに詳細に述べ、特に首相が落ついた口調で「そう無理せんでもよく話せばわかる」と言って、食堂より前に立って日本間に案内し、床を背にして座布団の上に端座し、「靴くらい脱いだらどうじゃ」といい、「吾々が何のために来たか解るじゃろ、この際何か言い遺すことはないか」と尋ねると、やや少し身体を前方に乗出し、両手をテーブルの上に置いたまま何事か語り出さんとした─この瞬間山岸が「問答いらん、撃て」と叫び、間髪入れず飛込んで来た黒岩が山岸、村山の間に位置してピストルを発射した音を聞いた─自分は山岸の声を聞き「よし」と言いながら引金を引いたが、自分の発射より前に黒岩が撃った─山岸の言をきかず、何ごとか首相に言わせたなら、「一個人を恨んでやるのではない。総ては天命である。安んじて眠れと言うつもりだった─と答える。

 高法務官「犬養首相は翌日の午前二時三十互分逝去されたと聞いていかなる感想をもったか」

 三上「私が最初に首相を発見して以来、首相の実に立派な態度を全部目撃しているので、首相個人に対する人間としての愛惜の情を禁じ得ないと同時に、希くは今までの邪悪なる日本の政治をしてこの悲壮なる首相の逝去を転機として、吾々の念願する真の天皇政治、昭和維新への首途たらしめんということを心中祈ってやまなかった次第であります」。さらに「吾々は他に合法的平和手段によって改造が行われるならば、その法をとったのである。目下の急務は精神の革新で、支配階級の人々が身を以て率先民衆に範を示して改造の端緒を開かねば嘘である。吾々は私心や階級的反感に基づく暴動反乱とはまったく違う。ただ期することは天皇治下の国民の幸福である。犯した罪は自覚しているが、私どもは純なる心境にあったのである。理論よりも実行で有象無象の右傾思想団体が名は日本主義を被るも内容空疎で勇しく悲憤憤慨しても、これは現実の実践力がない」

 と右翼団体を難じ、最後に高須裁判長将来について質せば、「吾々の行動いかんに拘らず現在日本は転換期に立っている。私どものやったことは確かに悪である。しかし私どもはやらずに居られないからやったという外表現の方法がない。国法に照しての罪の軽重の如きは私どもの考慮の外である。ただ上下心を一にして昭和維新の実をあげることを希う以外何の望みもない。私どもは今日たちどころに命を絶つとも、このことさえ出来れば何ら悔はない」と結び、閉廷となる。

 八月七日、定期開廷。三上君に対すする塚崎弁護士の質問あり。次いで特別弁護人朝田大尉より軍人らしい率直さで「決行後当然割腹するものと級友は思っていたが、自首したのはいかなる原因か」と尋ねる。三上「吾々の精神を国民に伝え皇道の意味を誤らせたくないためで、自首とは刑法の理論からいうも犯罪行為を申告するもので、自己の犯罪行為に対する屈服で自己否定である。吾々は昭和維新の第一歩を強く深く成果を獲得したいという考えで自決しなかったものである」と力強く答えて、足掛四日にわたった訊問を終る。

 一旦休憩の後午前十時四十分再開。唯一の予備役である妻帯者黒岩君の訊問が始まる。型通りの訊問があって、病を得て少尉任官後昭和四年春海軍を退き、翌年佐賀高校に入り、欠席多きため退学処分に付せられたことを一亘り述べ、昭和六年一月項から決行組に参加の決意をし、同年四月同志となったが三上以外に打明けて話をしたことはない(三上君と兵学校同期)、それより事件を起す原因となった思想の根底となっている事実数点を述べ、休憩後ロンドン条約問題に及び、三上君の意見に共鳴し、元々兵学校同期であり同郷である関係で三上君の依頼にて中央と佐世保間の連絡の任に当り、決行直前武器の輸送、佐世保の林と暗号電報往復の件など述べ、いよいよ決行前の十三日、池松武志君から封筒入の第五次計画書なるものを渡され、「この計画書によると、警視庁で決戦の後憲兵隊へ行くよう線が引いてあった。しかし私は警視庁との交戦で恐らく吾々は全滅し、筋は引いてあっても憲兵隊へ行くことはないだろうと考えました」と、流石に悲壮な感想を抱いた当時を回顧するようにみえる。

 かくて午後零時十五分休憩、午時一時半再開。五月十四日夜古賀、中村、三上君らと水交社にて最後の協議をしたことを述べる。

 高法務官「同夜遅く妻に遺書を認めたそうだが」

 黒岩「父母、兄弟へのものとともに妻へも遺書を書きました」

 高「どんな意味のものか」

 と問えば、しばし黙然とした後、

 黒岩「両親には今日までの恩を返し得ざるを詫び、兄弟には自分に代って親に孝養を頼み、妻には事態やむを得ずして家を捨て、ある行動を取るが、やむを得ないこととしてただ自分を信じて後のことを宜しく頼む、どうか一子典紀を天晴日本人として育てて君国の御用に立つべき人間となしてくれ、といったようなものでした」

 とポツリボツリと語り、さすが妻子ある身の切々の情を言外に現わす。

 高「その時の感想は」

 黒岩「私情においては堪え難いが、この際私情に拘わるべきではないと考えました」。

 ついで当日首相官邸に於いて犬養首相暗殺の場面に至り、

 黒岩「三上はやっと首相を発見、首相の肩に左手をかけて右手にピストルをぶらぶらさせながら歩いて出て行きました。首相とともに客間の入口でふり返って見ると、三十くらいの女と、子供を抱えた女がついてくるのを見て、何となくそこに来させたくない心持が起ったので、私一人引返し──君達には別に危害は加えぬからあちらへ行っていてもらいたい──というと、先頭の女の人が子供を指しながら──その子供を……──というので、──その子供がどうかしたか──と問うと、今度は何の返事もせぬので、心急ぎしながら同志のあとを追って客間に入ったのです。将に入る時に山岸の──問答いらぬ、撃て撃て──の声、次の瞬間私はピストルを首相の背後に突出すと同時に引金を引いていたのです」

 と妻子ある黒岩君が、婦人子供の身に細かい心遣いを配り、次の瞬間は第一弾を放つ息塞る情景を語る。憲兵隊自首の点については、

 黒岩「警視庁の襲撃で自分達が全滅すると思ったから、憲兵隊のことは大して考えなかった。三上のいったようなむづかしい法律的なことは考えず、自首のつもりでありました」

 かくて三時四十分休憩、十五分後再開。現在の心境及び将来について、「もし現在の支配階級が覚醒しない限り第二第三の五・一五事件がないとは言えない。私どもの行動それ自体は決して善ではありません。ただ総ての議論を越え、かくせざるを得ずしてこの悲しむべき手段をとるに到ったのであります。直接行動そのものは断じて濫りにとるべき方法ではないと思います」と語る。裁判長の訊問終り、清瀬弁護士の質問に答えて、

 黒岩「決行直前、病後の妻子をカムフラージュのため、同伴上京、上京後妻が再び中耳炎のため鼓膜を切開し、五月十五日の決行当日武器をとりに田代君の家に行った時など高熱のため妻と詰も出来なかった」ことなど縷々述べ、傍聴者を泣かせて同君の訊問を終る。時に午後四時五十分。

 一日おいて十日、定時公判開廷。首相射殺に当って「問答いらん、撃て」と叫んだ山岸君の訊問に入る。高法務官例によって各関係者との結合振りを質すと、故藤井少佐には相当の影響を受け、安岡正篤氏が関係している金鶏学院を烏会館と呼び、柔道は自称四段実際はありません、と傍聴者を笑わせる。西田税のみならず北一輝をも将来清算するつもりであったと北の日本改造論を鋭く攻撃、井上日召は海軍を指揮したことはなく、同じ陛下の赤子であり、彼は吾々を指揮する立場になっても指揮する観念を持たない、それが日召の偉大さであると褒めちぎり、権藤成卿は「指導原理の大本」なりとして多大の影響を受けたことを語る。さらに、山岸自身の思想の根底を一言申し述べると前提して、「腐敗せる現在の支配階級を圧潰して、これに代ってやろうとするが如きファッショは、絶対排撃。資本家財閥といえども一皮むけば等しく陛下の赤子である。万民等しく陛下の下に跪く天皇親政こそ、吾々の終局とする目的である」。所信を断行して直ちにこれを善なりとする危険思想のあることを指摘し、「これは非合法を合法と糊塗し、名を求める悪思想で、殊に陸軍部内に強大である。吾々は敢て国賊たる責は一身に負う。私は非合法によらねば現状を打開出来ぬと考えたのであるが、非合法は陛下の大御心に外れたことと信じております。故に自ら国賊なりと言います。然るに、社会風潮はこの非合法手段を以て直ちに是なりとする徒輩が多いので、先程私が申したのはこの徒輩の考えが誤っていることを指摘したのであります」。次いでワシントン会議及びロンドン条約問題に移り、十月事件に及び、傍聴禁止を宣せられて休憩に入る。午後一時開廷。傍聴禁止約一時間。十月事件の首脳者達中はファッショにして大御心に絶対添わず、現今の支配階級を倒して自分達の権勢欲を満足せんとする国賊なり、と猛烈に攻撃した。昭和七年二月十一日の紀元節テロを主張し、任地鎮海から上京する積りでいたが中止となり、四月横須賀に転任、権藤成卿を訪問して「決行の話をしたが、権藤はとにかく今年末まで待ったがよいというので、古賀に年末まで決行を待てと手紙を出しました。大体私は血盟団についでテロをやるなら二週間くらいでバタバタとやり、さらに一ヶ月以内に海軍が立たねば効果がないと思っていた。しかし血盟団のやるのを見ていると、井上準之助が撃たれてから殆んど一ヶ月もして団琢磨が撃たれた。これでは駄目だから海軍がやるのは年末まで見合せようと思っていました」と決行時期の問題に関し自己の当時の意見を述べ、その日は閉廷。

 翌十一日山岸君の訊問続行。決行当日に及び古賀君の計画を見て、鈴木貫太郎大将(時の侍従長)が目標にあがっていなかったので不服に思ったが、急に計画変更も困難と思って口には出さなかった。いよいよ首相襲撃の場面に到り、

 山岸「犬養は支那ゴロだから面と向ったら敗けはせぬかと陸軍の士官候補生がいうので、戦は時の勢だから飛び込んだ勢でやっつければ大丈夫と答え、私はピストルを三上にやったので短刀でやるつもりでいた」

 ついで殺害瞬間の情景に移り、「首相は──なんだ、靴などはいて、脱いだらどうか──というので、このどさくさに靴など脱げるか、その手は喰わぬぞと思ったが、これがやはり撃て撃ての号令となった主要な原因でしょう。首相は──兎に角話そう──といい、三上は応待する模様であったので「問答いらん、撃て撃て──と叫びました」。

 高法務官「被告は指揮官を以て任じていたのではないか」

 山岸「いやそんなことはありません」

 とあっさり否認する。首相逝去の感想については、「来ぬ春を待たで散りにし人柱、けふはいづこで国を見護る」獄中で詠んだ歌を読みあげる。

 高法務官「首相を殺した時刻を被告は知っているか」

 山岸「五時二十七分でした。私は航海の関係で何かあるたび毎に時計を見る癖がつき、その時も時計を見ました。私の時計は二十五分でしたが、私の時計は二分遅れていました」。

 ついで獄中で何より先に心をうたれたのは親の慈悲と兄弟の情であり、「克く忠に、克く孝に」は実に国体の大本をなすものであるとにじみ出るように述べ、それより宇宙観人生観について滔々と論じ、汗に眼鏡をくもらせながら神ながらの道に及び、進化論優生学が出るかと思えば模倣論が出、八方から論旨を進めて人類の集団性から天皇中心制の正しさを社会学上生物学上からも説明、声をからして教育勅語の精神を詳細に説く。

 高法務官「その思想でこのたびのことをどう考えているか」

 山岸「言っても聞かぬ毒物は生かしておいても仕方がない。直接行動も百年の大計を思えば敢て行います」

 高「それは独断ではないか」

 山岸「そうです。大御心に外れて道はありません」

 と答え、午前は終り。午後二時再開。裁判長より将来の覚悟を質せば、

 山岸「再び吾々如きものを出したくありません」

 と簡明卒直に答え、福田弁護士より人情問題つき二三質問、

 山岸「革命運動中といえども親を思わぬ日は一日たりともなかったが、ことが済んだ後の今は心中にただ親を思うのみ」

 と。これで山岸君の訊問を終り、村山格之君の調べに入った。

 村山君は日召に一度会い、日召が破壊さえすればあとはちゃんと出来てくるから心配せんでよいと説いたことに速坐に感銘し、権藤成卿は「日本的アナーキズムで天皇否定ではない」と彼の思想人格に感化され、革新運動に入るに至った動機については、「明治維新はインテリ志士によって成ったブルジョア革命で、これを無批判的に発達せしめたところに欠陥が暴露した」となし、田中大将の機密費事件、金塊事件、共産党の跋扈等を引合に出し、かかる社会をなんとかせねばならぬと思っている時に、藤井斎らの王師会を知って藤井に近づき、佐藤信淵の経済学説と自治民範とを搗合せたもので社会改造を断行すべきであると確信するに至り、同時に北一輝の日本改造法案を読み「コレコレ」と思い、いよいよ直接行動を起す覚悟が出来たのである。論はさらにロンドン会議に及び、当時の海軍は無統一から国防の重任を負いながら政党政治家、特権階級、財閥の前に泣寝入りさせられてしまった。と憤慨してこの日は閉廷。

 翌十二日、村山君の訊問続行。上海にいた当時古賀清志君より第二段に回ってやれといって来て、目標として財部、岡田、谷口、山本の各海軍大将を指示して来たと陳述。三上君と大庭君の間に立って武器輸送に携り、上海事変に関連して犬養内閣では駄目だから軍政府樹立の必要を痛感し、軍部内の先覚の士と新興政治集団とが一体となって国民を指導すべきだと思ったことを表明、横須賀砲術学校の教官助手として転任途中佐世保で内密に林と会い、当時林には犬(当局の監視)がついているので道もなるべく一緒に歩かなかった、犬に噛まれてはかないませんからなあ、と傍聴人を笑わせる。首相官邸襲撃の場面では首相を前にして、手を後に組んでいたが、黒岩君が撃った時おれもと思って手を出したが、三上君が撃ち、山岸君が引揚げろというのでそのまま引揚げ、途中木刀で立向った平山巡査に対しては生意気な奴と思い、とにかく一発撃ってみたかったので発射した、と正直なところを告白。高法務官首相逝去の感想を尋ねるや、

 村山「大津刑務所に入って以来、首相並びに他の犠牲者のため毎日黙祷をを捧げています」

 警視庁襲撃については「やってやってやっつけて、そこで討死するつもりでした。憲兵隊に行くのは変だと思ったが、山岸が憲兵を引出すんだと言っていましたので、私は暗くなるまで憲兵隊で一休みしようと思いました」

 高法務官「古賀の計画書を見て何と思ったか」

 村山「別働隊が成功しなければ少しばかり世間を騒がせるだけで何にもならない、犬養内閣は倒れて既成政党の連立内閣が出来るかも知れず、それでも少しは支配階級を覚醒せしむることがあるだろうと思いました」

 一旦休憩後再開。村山君は決行するに至った動機目的につき補足したい、とて「貧窮せる農民、激増せる失業者、経済組織の破綻、農村都会の反目、階級闘争の激化、権力野心の右翼運動、議会政治の堕落、軽薄なる物質文明、誤れる軟弱外交、無力無能にして私利私欲にのみ走る既成政党、著侈遊惰なる財閥、眠れる国民、これが現今の日本の姿であり、この行詰りと社会悪は結局資本主義社会そのものの所産であり、徹底的の改革がなければ救済不可能であり、ここに於いて吾々は起るべき新興勢力と国民の自覚によって革新する外ないと考えて、この狼火として今回の破壊行動に出たのであります」。高須裁判長から事件を通じての感想、将来に対する覚悟はときかれ、「私達は理論や理窟で動いていませんでした。希くぼ全国民よ、極悪なる功利主義とつまらぬ社会的虚栄と階級闘争をやめて、朗かになろう。天皇の御許にかえろう。私達は全国民がこぞって新興日本を建設し、さらに進んで世界が現に悩みに陥っている政治的経済的道徳宗教的混乱より全人類を救済することを祈ってやまないものであります。なお国法を犯し軍紀を紊した罪に対しては、厳重断乎たる御裁断を仰ぎますとともに、死しては魂塊となり日本帝国を守り、生ある限りは弥栄え行く皇道に仕え奉るものであります」と結ぶ。

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5・15事件(一海軍士官の青春) 17

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月21日(月)18時41分37秒
返信・引用 編集済
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第3章  東京軍法会議


       2.反ファッシズム

 高須裁判長の指図によっていよいよ高法務官の事実審理にはいる。高法務官は穏かな口調で「それではこれから反乱、反乱予備被告事件について審問を開始します。古賀」と古賀君を招き、父母及び兵学校に入学するまでの履歴、藤井斎君との関係並びに海軍側被告との関係、終って民間の井上日召、橘孝三郎、大川周明、頭山秀三、本間憲一郎、西田税、権藤成卿との関係を尋ね、兵学校時代思想上影響を受けたものに対する質問あり。さらにロンドン条約に及ぶ。

 古賀「ロンドン条約ではアメリカの資本に日本が圧伏されたのであり、当時の若槻全権は政党の代表者で政党は財閥によって動かされるものと信ずる。財部大将は元来海軍においては山本権兵衛伯のシーメンス事件以来の薩閥の流れをくむもの。財部海相は初めの主張を通さず譲歩したので、ロンドン条約の譲歩は今日の支配階級が非国家的存在であるからと思う」

 高法務官「今度の決行はロンドン条約と関連しているか」

 古賀「政党も特権階級も結局財閥の傀儡に過ぎぬとの意識を強めた。しかし当時の海軍は眠っていたので当時海軍部内では『量よりも質』ということが宣伝されたが、財部海相が──死すとも帰らず──と誓ってロンドンに臨んだのに譲歩して帰り、そうして部下に量よりも質といってみても何らきき目もないと思う。薩派等の軍閥というものは一種の屈辱的ものと思った」

 とロンドン条約は大失敗であると断じ、草刈少佐の自殺は単なる自殺とは思えなかったと力強く陳べる。

 高法務官「海軍は藤井が中心ではないか」

 古賀「藤井も中心であるが吾々は主従の関係はなく平等であり、ただ地理的関係等で役割が違うだけである」

 次いで昭和六年十月のいわゆる十月事件に及び、裁判長より公開禁止を宣せられ、弁護人及び特別弁護人以外は全部廷外に退出。十月事件の性質と吾々の関係並びに事件未然に発覚、その結果西田税と井上日召らとの対決となり、遂に西田来らずしてそれ以来西田に対しては一種疑惑の目でみるようになった。かくして公判初日は終了。吾々他の被告は椅子に腰を下して傍聴しているだけである。

 初めて公判廷に被告として出廷し古賀君の取調べを傍聴して、これでは予審を繰返すようなもので、最初から細大洩らさず訊問されては、いかに自分が公判廷では何も喋らずに終ろうと思っても到底不可能だと判った。

 公判終了後朝田特別弁護人が自分の控室に来たので、以前頼まれていた書を八枚浅水特別弁護人に渡してもらうように頼む。軍法会議場より再び護衛厳重に刑務所に帰り、夕食後字を書く。

 翌二十五日、公判第二日、公判廷出廷前に村上看守長来房し、民間側の係検事木内曽益より字の依頼があったから頼むとの注文。公判開始とともに新聞に出たものだから金釘流の字の注文がふえてきた。

 午前九時、前日に引続き非公開のまま公判続行。やがて公開を許されて十名足らずの傍聴者入廷して再開、古賀君の訊問に移る。

 決行の時期、陸海軍、血盟団との連繋等につき問答あり。

 古賀「小沼が井上準之助を暗殺した結果、伊東、大庭らの名が分ったから前線暴露の恐れがあるので、この際集団テロをやろうとし、西田税を訪れ、菅波、大蔵、安藤らの陸軍青年将校にも会い、次第に前線暴露の情勢にあり、またこれでは同志拡大も不可能であるから、実力部隊の人々は後の本隊となり学校その他が集団テロに参加してくれと話込んだが、西田は待ってくれといい、陸軍の青年将校も態度がハッキリせぬし、菅波中尉以下の大部分が上海戦に出征するありさまなので、遂に陸軍士官候補生に渡りをつけたところ直ちに同意し、青年将校の方は時期尚早として円滑に断った」

 と述べ、ついで武器入手の苦心談に及び、一旦休憩して再開。

 古賀「吾々は破壊を考え、建設の役を考えず、戒厳令を誘致して信頼する陸軍中将荒木陸相を首脳とする軍政府が樹立され、改造の段階に入るものと信じた」。

 昼約一時間休憩、午後一時再開。各地の同志から注文やら意見が来て、実行計画者として襲撃計画も第一次より第五次と変更され、最後に佐世保の林から暫く待てとの来電あって精神的打撃を受けて第四次計画を止め、すなわち五月十五日実行せし第五次計画樹立までの苦心の跡を陳述する。第五次計画の首相官邸、牧野内府邸、政友会本部、警視庁等の襲撃理由を明らかにして、さらに西田税は吾々の行動を妨害するものと認定して殺害する計画に到ったことを明言、警視庁ではもし多数の警官が迎撃した場合は討死する覚悟であった、と当時の決心を明かにする。

 次には高須裁判長自ら古賀君を招いて、「この事件についての被告の心境いかん」と厳かに聞き質せば、

 古賀「計画の立場にあったものとして粗雑極まる計画をなし、これを同志の間にも十分連絡をせず、大正十四年より約十年間狙っていた君側の奸牧野内府を除くことを得なかったのは不覚にして、また川崎長光にも志を貫かせず、その責は万死に値するものである。しかしこれは後世の史家に任すのみである」

 高須「将来に対する被告の覚悟は」

 古賀「私は反省の結果過去の考えは中正を失していたと思う。しかし私の済国救民の考えは少しも変らない。七転八起の考えを以てこの途に邁進します」

 高法務官はこの時裁判官としての訊問を終ったからとて何か尋ねることはないかと検察官席を顧る。山本検察官はこれに対し二、三質問した後、「重大事を決行するのにあまり簡単に考え過ぎていたかに思われるがいかん」と突込めば、

  古賀「然りであります」

と卒直に答える。

 山本「最後にもう一つ──革命運動は一代では出来ぬ。人柱という如き捨石を必要としているが、計画の冒頭に自首を案の中にいれているがその点いかん」

 古賀「憲兵隊に行き、従来の陸軍との関係を暴露し、陸軍を奮起せしめんとしたのだ」

 これで検察官の質問を終り、弁護人の質問に移る。

 弁護人「自首を決意したのは他に何か意味はなかったか」。

 古賀「それは草刈少佐の如きさえ神経衰弱で死んだと伝えられてしまう。死は急がなくとも誤解されないことに努めねばならぬと思ったからだ」

 他に二、三質問あり。午後二時古賀君に対する事実訊問を終り閉廷となった。古賀君が何故に憲兵隊に自首したか、はじめて吾にもわかったようなものである。

 古賀君が言っているように、同志間の連絡が不十分であったことも、計画が粗雑であったことも間違いないが、古賀君が苦労したことはよく判る。公判廷で古賀君の陳述を聞いていて自分には耳新しい事実が大分あり、そうであったかと思うことがたびたびある。何と言っても、霞ケ浦と佐世保と離れていて簡単な手紙や電報往復であるので、互いに意を尽していないことが相当にあった。お互いが軍隊のように指揮命令系統が明確になっておれば、上長の命ずるところ下僚は至上命令として突進するのであるが、お互いのなかに誰が指揮者と決っても居らず、ただ同志ということで平等の立場に立っている以上、互いに納得せねばならず、その辺がなかなか困難であったことは肯ける。そんなことを考えて監房に帰り、借りになっている字を書くことにした。

 字を書く時は何も考えず一生懸命になれる。十枚くらい書いて林弁護士依頼の分に自作の五言絶句と七言絶句を二枚書き上げ、アメリカ航路の遠航より帰って面会に来た級友久住忠男君を通じて渡す。同君よりアメリカの旅行談を聞く。今日はなんだか頭がボンヤリしている。憲兵及び小川録事君(予審当時の)に一枚金釘流を書き送り、借金払いをする。支那勤務の級友坂井君に支那墨の注文の手紙を出す。

 翌二十八日、公判午前九時開廷。本日より中村義雄君の訊問開始。中村君とは昭和三年遠洋航海時代は同じ出雲の乗組であり、終って砲術学校、水雷学校、航空隊と一緒にいて、どこに行くにも形影相添う親しい間柄であり、彼は真面目な人好きのする好漢で、物事の仕末のよい素朴勤勉な青年士官で、いつもニコニコしている。昭和六年十二月航空隊に古賀君とともに飛行学生となって後、純然たる同志となったものである。同君は霞ケ浦航空隊に於いて古賀君に協力して準備に当り、一日、後に二・二六事件で死刑となった村中、安藤君らの陸軍側に対し、血盟団の後を承けて陸海軍相携えてことを挙げんと力説したが、陸軍側は賛否の意を表明せず、その中にあった坂元士官候補生が独り賛成し、坂元君の連絡により士官候補生十名程と大久保に会合、この時青森連隊より来た相沢陸軍少佐がこの計画を聞き、革命などといって非合法運動を起し流血を見るということは面白くない、と忠告したが、血盟団の例を挙げこの忠告を退け、その後再び古賀君とともに陸軍士官候補生と会い、確実に行をともにするように決定づけられたことを述べてこの日の法官の訊問を終り、次いで塚崎弁護士より「去る二十三日、首相官邸、牧野内府邸の内外及び警視庁等の実地検証の申請を提出しておいたがお許しを願いたい」と述べ、裁判官合議の上この申請を採用、二十九日午後これらの実地検証を行うこととなって、三時五十分閉廷。

 翌二十九日、休廷。自分は目下のところ傍聴していればよいのであるが、やはり精神的に緊張し、些か疲労を覚えて、今日は字書きは数枚でやめ終日休養をとる。三十日、房内で終日習字をやる。自作の七言絶句を十四、五枚書く。志波、島崎両少佐の分をと思うが思わしいものがない。林逸郎弁護士及び浅水特別弁護人が面会にくる。何れも自分に公判廷でウンと喋らそうとしている模様である。古賀、中村両君の公判廷における公判の模様を見れば、いかに喋らずに済まそうと思っても、先方でそうは許さず、問わるるままに何とか口を開かねばなるまい。

 三十一日、公判は再び中村君の訊問。

 五月五日佐世保との連絡係たりし黒岩勇君と土浦で会い、

 中村「佐世保の鈴木四郎大尉は自重論だと黒岩君より聞き、なんとなく不安を感じた」

 高法務官「佐世保の林正義より水月の雅号で打ってきた例の『暫く決行待て』の電報については」

 中村「この電報は航空隊で古賀が私に示し──どうする──と問うので──この際決行せねば再び計画することは困難である。佐世保の同志が来ぬなら東京部隊だけで決行してはどうか──といって第三次計画を樹て、決行と決した」

 と答え、次いで第五次計画の効果予想について、戒厳令をあまり期待しなかったとこの点は古賀君と別な気持で、「私と古賀とは殆んど全部一致しているが、一点気持の上で違っていた。古賀は当法廷の陳述の如く戒厳令誘致まで行けると思っていたが、私は陸軍の煮え切らぬ態度や農民の方の思わしくない情勢に鑑み、戒厳令誘致は難しいと思った。しかし私は正々堂々とやってこの決行が国民に与える精神的影響を最も期待した」と当時の心中を吐露する。襲撃目標に対する襲撃理由は古賀君と殆んど同様のことを述べる。

 高「犬養首相暗殺の結果、あとはどんな内閣が出来ると思ったか」

 中村「平沼、安達の連立内閣が出来ると思っていた。然してその結果制度が大して変ろうとも思わなかった。大体私は魂さえ入替えれは制度はそのままでも差支えないと思っていた」

 と答えて、十一時五十分休憩。午後一時再開。特別傍聴席には野村横鎮長官が二度目の傍聴に来延、その他本多熊太郎氏の顔も見える。決行当日の模様が述べられ、高須裁判長から「事件決行後の心境を述べよ」とて、「徹底出来なかったのは一生の不覚で、今度の失敗も中央にあって活躍すべき私が無能であったためで、同志に対し申訳けない。陛下の軍人たるものが国法を破ったのは万死に価する。厳罰を望む」と古賀君同様失敗の責を痛感するらしい。ついで山本検察官が権藤の自治主義と北一輝の日本改造法案とを比較せよと求め、「中村この改造法案の国家資本主義制などが第一段階として適当である」と述べる。

 山本「破壊の後に来るものは権藤の自治主義と思ったか」

 中村「予審でそのように述べたのは進んで述べたのではない」

 とこの点は曖昧にする。林弁護士より「支配階級」「特権階級」「学閥」の名前を挙げ、財部大将、宇垣大将、西園寺公などの名をあげて攻撃し、中村君の意中を質す。稲本弁護人より「無益な殺傷をせぬとの申合せがあったか」と問われ、「申合せなくとも期せずして皆がその気持であった」と中村君は答える。これで中村君の訊問を終る。午後三時半頃監房に帰る。温和な中村君が自分が佐世保から暫く待てと打った電報を押し切って決心したとは、よくよくのことであり、純情一徹に思いつめていた情況がわかる。海軍病院に入院中の級友清水寿録君及び坂井倉一君に書を発送。

 八月一日、公判。司法次官、山田海軍法務局長、木内東京地方裁判所検事等の特別傍聴者の顔が見える。定刻開廷。本日は三上卓君の訊問。荒木陸相そっくりのピンとした口髭で容貌も似ている三上君が訊問台に立つ。高法務官より例によって藤井君及び他の被告との関係を問えば、「はじめは他人に頼る必要はない、俺一人でやるんだとの単独的な強い意思であったが、ロンドン条約以来、大なる効果を収めるには同志の団結が必要だと悟っているところに、たまたま昭和五年夏佐世保水交社で藤井と会って同志となったのだ」と、単に藤井君に誘われたのではなく独自の立場だと強調し、国家革新運動の精神と苦心とについて簡単に述べさせてもらいたいと乞い、許しを得て力強い語調で説き始める。
「維新も革命も同一義である。総てを日本的に解釈し日本的に実行せんとする以外に私は方法を知らぬ。祖国日本の精神に反するものを排するに当っては政治家、財閥、軍閥の何れたるを問わぬものである。吾々の運動は左傾にあらず右傾にあらず、共産党を排するはもちろんながら、ファッシズムを以て日本を救う途なりとする如きは最大の誤りである。ファッシズムは明治維新後の薩長藩閥政治がその典型で、悪政治であることが試験済みである」。ついで鉾先を陸軍の権勢欲に向け、「陸軍至上主義は陸軍意識ともいわるべく、その元兇は宇垣大将で、かくの如き私欲権勢を欲するものが上にある時、国政は乱れ、国民は塗炭の苦しみを受け、外国の侮りを受ける」と吹いて一旦休憩。三十分後再開。

 部外者との関係に及び「精神を同じうするものを同志とすれば同志である。大川周明は吾々の同志ではない。彼の思想は元来国家社会主義で軍部との腐れ縁はあろうがその根本精神において日本の本当の政治を理解せぬもので、吾々の運動に彼を利用するのは差支えないが、革命精神に於いて終始行動をともにすべき人間ではない」と言明、「頭山秀三は多少話せる男である。本間憲一郎柴山塾頭は顔も知らず、西田は結局何やかやと策動する男で真に国家を憂うるの士ではなく、軍閥と結んだ煽動屋、井上日召は純情と若さに加うるにどこまでもやるんだとの信念に燃ゆる男で「陸海軍同志にも強い影響をもっていたが、海軍同志間には、俺が引づったというような対立的打算的なものではなく、期せずしてお互いにやろうという性質のもので、日召も吾々もともに同志である。同志の一人一人が全同志に対するリーダーで同志一如である」とあくまで指導者を認めぬ。権藤成卿についてはどう思うかとの問いに、「彼のあくまで権力を否定し、古来の自治に立脚した制度革新を行うという説には、はじめは同感であったが、上海事変出征中にこの見方が変った。結局彼の思想では日本の国体と相容れぬものがあると考えるに至った」と権藤イズムを排撃する。

 午前中はこれで終り、午後一時再開。海軍の堕落は国政腐敗の反映であるとなし、前被告同様政党、財閥の非を鳴らし、自分の思想発達過程を述べてロンドン条約に論及、「当時のアメリカ駐日大使キャスルによって日本朝野の名士、大新聞は買収され、牧野内府は鈴木侍従長を丸めて帷幄上奏を阻止し、明聖を覆い、国の威信を失墜したのである。当時のアメリカ国務長官が──吾々の思う通りの比率を押しつけた、どんな貧乏国でも製艦競争で屈服威圧せしむることは出来ぬ、然るに日本は吾々の前に屈服したのである、私は脱帽して日本に敬礼する──と演説している。即ち日本の軟弱外交と海軍の軟弱振りの醜骸を曝した」と悲憤憤慨し、財部全権とともに浜口首相を暗殺せんと決意したが思いとどまったことを述べる。次いで十月事件に及ばんとして検察官より安寧秩序を害する恐れありと公開禁止を要求したのに対し、三上君は語調烈しく「そもそも安寧秩序とは国家百年の大計より過去を以て現代を正し、現代を以て将来を規律して行くべきものだと思う。よって悪を悪として国民の前に披瀝し国民に問い、さらに陛下の神聖なる御裁判を待ち、はじめてここに真の天皇の御裁判があると確信する。もちろん私は日本人であるから、国際的に日本を不利に陥れるようなことは申上げない」と公開を裁判長に迫ったが、遂に公開禁止となって、その日の公判は終了した。

 公判闘争を覚悟していた三上君は、もともと中学時代より弁論部にいた雄弁家であり、性格的にも強い男であって、公判前に熱心にメモを作り、裁判官に注文をつけて自分の方から積極的に法務官の質問以外のことをも、闘志満々としてあれを拉しこれを捕えて罵倒し、自分の主張を通さんと熱弁を揮った。休憩時法廷出入りの際に、自分は三上君の背中を突いて「オイなかなかやるの──」といってイタズラをやると、彼は 「なにか──ウンやるさ──」と目をギロリとさせて振り向く。黒岩君も三上君と同様闘志旺盛な剽悍な激情家であって、これも公判闘争組なので、「三上がやっとるぞ」という意味で自分は時々靴で黒岩君を後からコズくと、黒岩君は前を向いたままカカトで蹴り返してくる。

 刑務所に帰ってみれば支那勤務の浦辺君より先に注文しておいた大きな硯が届いていた。これで墨を一度に沢山磨って字書きをやるのに便利を得た。

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5・15事件(一海軍士官の青春) 16

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月16日(水)09時20分25秒
返信・引用 編集済
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第3章  東京軍法会議


      1.公 判 (後)

   公訴状内容


   罪名と被告

反乱      休職海軍中尉          古賀清志
同       同          中村義雄
同       同          三上 卓
同       予備役海軍少尉    黒岩 勇
同       休職海軍中尉     山岸 宏
同       同   少尉     村山格之
反乱予備        待命海軍少尉     伊東亀城
同       同          大庭春雄
同       待命海軍中尉     林 正義
同       同   大尉     塚野道雄



  犯罪事実

 被告等は孰れも直接又は間接に故海軍少佐藤井斎より思想上の感化指導を受けたるものなる処、右斎は海軍兵学校在学時代より、日本を盟主として亜細亜民族の大同団結を計り、白色民族の横暴を懲し、以て道義を世界に布かんとするの所謂大亜細亜主義思想を抱懐し、被告古賀清志、同村山格之等を指導して共に同志拡大に努め居りしが、昭和五年軍縮会議問題に附随して統帥権干犯問題起り世論沸騰するや、之を以て政党財閥及君側重臣の結託に依り斯る非違を敢てしたるものとなし、大に之を憤ると共に、現代日本に於ては政党政治家、財閥及特権階級等孰れも腐敗、堕落して国家観念なく、日本をして政治、外交、経済、軍備、思想等各種の方面に行詰りを生じ、国家滅亡の虞あるに至らしめたりとし、之が革新の要ある旨を説きて被告伊東亀城、同大庭春雄等を指導し同年七月頃茨城県新治郡土浦町料亭山水閣に村山格之、伊東亀城、大庭春雄外十数名を、同年十二月二十八日福岡県糟谷郡香椎村香椎温泉に被告三上卓、古賀清志、村山格之外十数名を糾合し、国家革新を目的とする一団を形成して直接行動に依る非合法運動に従事することとなれり、此の前後に於て被告山岸宏は伊東亀城の勧誘を受け同年十二月より、被告林正義は三上卓の勧誘を受け昭和六年二、三月頃より、被告中村義雄は古賀清志の勧誘を受け同年十一月より、被告黒岩勇は三上卓の勧誘を受け昭和七年一月より上記藤井斎を中心とする一団に加入し、爾来孰れも右運動に従事し来りたる処、藤井斎は上海事変に出征して同年二月五日戦死するに至りたるも、被告等は依然として其の運動を継続し、被告塚野道雄も亦林正義の勤誘を受け同年三月より之に加入したり、当時霞ケ浦海軍航空隊に勤務し運動の中心地たる帝都に遠からざりし関係上、古賀清志、中村義雄の両名は勢ひ主として其の衝に当ることとなりしより、前記素志貫徹の為先づ集団的直接行動に依り帝都の治安を素して一時恐怖状態を出現し、以て戒厳令の布告せらるに至るべき情勢に立至らしめ、戒厳令下に国家革新の実を挙げんことを企図し、予て被告等と其の目的を同じくして革新運動に従事し居りたる茨城県東茨城郡常磐村三千三十九番地愛郷塾長橘孝三郎、同塾教師後藤圀彦、同林正三、同県那珂郡前渡村大字前浜九百九十九番地川崎長光、明治大学学生奥田秀夫、元陸軍士官候補生池松武志及陸軍士官候補生後藤映範外十名と提携するに至れり。

 而して被告等は予てより直接行動の準備に専念し、之に使用すべき武器入手に腐心して孰れも手榴弾、拳銃等の蒐集に努め



(一) 村山格之は

  一、昭和七年一月二十一日実父従弟佐賀県小城郡北多久村大字多久原三百三十四番地予備役陸軍歩兵大尉長尾秀雄より南部式拳銃一挺を入手し、更に同人の紹介に依り同月二十四日海軍少尉沢田邲をして秀雄知人第五師団勤務陸軍歩兵少佐門司昇一より同拳銃用弾丸約四十発を入手せしめ、同年二月中旬沢田邲は右拳銃及弾丸を下宿呉市下山手町二十八番地岩佐六郎をして古賀清志に送付せしめ

  二、駆逐艦薄に乗組み同月二十三日上海に出征し、同年四月十六日上海碇泊中の軍艦出雲に於て海軍大尉田崎元武より「ブローニング」拳銃一挺、同弾丸五十発を入手し、当時通信艇として上海、佐世保間を往復し居りたる駆逐艦楡乗組大庭春雄をして佐世保に持帰らしめ、次で同月二十一日自ら之を古賀清志に手交し



(二) 伊東亀城は上海出征中戦線に於て負傷の際戦闘用として携帯し居りたる手榴弾一個を其の儘所持して後述せられる佐世保海軍病院に入院せしが同年二月十二日同所に於て之を林正義に手交し、正義は同年三月二十二日之を黒岩勇に郵送し



(三) 三上卓は上海出征中同年二月中旬特別陸戦隊用の手榴弾二十個を入手して之を村山格之に手交し、格之は駆逐艦楡乗組大庭春雄に手交し、春雄は同月二十七日頃之を運搬して佐世保海兵団勤務林正義に手交し、正義は之を同団勤務塚野道雄に手交して其の私室に隠匿せしめ、更に同年四月九日正義は佐世保市熊野町五番地塚野道雄宅に運搬し、同所に於て林正義、大庭春雄、黒岩勇及塚野道雄の四名にて道雄所有の手提鞄に納め、勇は一旦之を佐賀県小城郡東多久村大字別府四千四百二十一番地の実家に持ち帰り、曩に林正義より郵送を受けたる一個と合せ手榴弾二十一個を同月二十一日鉄道便を以て東京市内に輸送し、次で友人東京府下王子町下十条千五首五十番地田代平方に隠匿し



(四) 古賀清志、中村義雄の両名は同年二月下旬より三月下旬に至る問に於て同府荏原郡大崎二百三十一番地財団法人東亜経済調査局理事長、神武会頭、法学博士大川周明、同府豊多摩郡澁谷町常磐松十二番地天行会長頭山秀三、同会理事本間憲一郎に上記企図の大要を  告げて其の賛同を得、依て清志は

  一、同年四月三日周明方に於て同人より拳銃五挺、同弾丸百二十五発及運動資金として千五百円を

  二、同月二十九日同所に於て周明より運動資金として二千円を受領し

  三、同年五月十三日同所に於て黒岩勇をして周明より運動資金として二千五百円を受領せしめ

  四、同年四月十七日秀三方に於て本間憲一郎より拳銃三挺同弾丸若干を

  五、同月二十二目茨城県新治郡真鍋千三百二十三番地本間憲一郎方に於て同人より拳銃一挺、同弾丸若干を

  六、同月三十日頃同郡土浦町大和町三千二十八番地染谷忠助を介し同所に於て憲一郎より拳銃一挺、同弾丸若干を受領し



(五)古賀清志及中村義雄は拳銃、手榴弾の不足を補ふ為め短刀を入手せんと欲し、池松武志及奥田秀夫に対し資金を給して之が購入方を命じ、同年四月二十四日旭松武志より四口を同年五月三日奥田秀夫より三口を、翌四月池松武志より二口を、同月十四日奥田秀夫より三口を受取り



(六)三上卓は右同様の目的を以て同日短刀二口を購入したり



 以上の外

(一)三上卓は上海出征中同年二月下旬特別陸戦隊用陸 式拳銃一挺、同弾丸十五発入五箱及八発入弾倉二個入手して之を村山格之に手交し、格之は駆逐艦楡乗組大庭春雄に手交せしが、同人は予て卓の指示に基き上海北四川路長春路百八十七号松下洋行事松下兼一を介し同年五月九日同洋行に於て「モーゼル」拳銃一挺、同弾丸百二十発、保弾鈑四個及メリオ拳銃一挺、同弾丸八十三発を購入して上記陸式拳銃其の他と共に決行の際之を使用せんとする目的を以て同艦私室に隠匿し置きたるも其の意を果さず

(二)塚野道雄及林正義は同年五月三日当時道雄方に同居中の佐世保市万津町川原石油店店員予備役陸軍歩兵少尉岩重徳雄に対し資金を給し、長崎其の他に於て銃入手に奔走せしめたるも、遂に其の目的を達せざりしものなり



 一方古賀清志は中村義雄と相謀り前示企図に付き其の実行計画を樹立せんと欲し、同年三月下旬より之が起案に着手し数次洗練の結果、同年五月十三日一案を得同月十五日に至る迄の間に於て伊東亀城、大庭春雄、林正義及塚野道雄を除く外全部の同意の下に之を決定せり、即ち古賀清志、中村義雄、三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山格之、奥田秀夫、池松武志及陸軍士官候補生後藤映範外十名を四組に分ち、上記の武器を使用して同月十五日午後五時三十分を期し第一段に於て第一組は首相官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は政友会本部、第四組は三菱銀行を襲撃し、第二段に於て第四組を除く他の三組は相合して警視庁の襲撃を敢行し別に橘孝三郎の一派を別働隊となし、同日午後七時頃日没時を期して東京市内及其の附近に電力を供給する変電所数ケ所を襲撃せしむることとし之に依り政党の領袖にして内閣の首班たる者を屠り、君側の奸と目する者を除き、更に政党財閥打倒の意を闡明にすると共に、警視庁に於て動員せらるべき武装警官隊と決戦して警察力を破壊し、以て支配階級擁護の任にありとなす警視庁を膺懲し、其の無力を民衆に知らしめて之が奮起を促し、変電所を破壊して帝都を暗黒化し軍力を以てするに非ずんば克く秩序を維持する能はざるの事態を惹起せしめ、延いて戒厳令の施行に至らしめんことを期し、加ふるに従来被告等と国家革新道動に従事したる東京府下代々幡町代々木山谷百四十四番地元陸軍騎兵少尉西田税を目して被告等の計画実行を妨害するものとなし、此の機会に川崎長光をして之を暗殺せしむることとしたり


而して古賀清志は予め前記武器中

 一、手榴弾六個を変電所襲撃用武器とし、黒岩勇の手を経て林正三は之を後藤圀彦に手交し

 一、短刀六口を変電所襲撃の際携帯すべき武器とし、西田税暗殺用武器として川崎長光に交付すべき拳銃一挺、同弾丸八発及短刀一口と共に之を後藤圀彦に手交し

 一、残余の武器は黒岩勇、中村義雄と共に東京市芝区栄町十三番地東京水交杜に運搬し内手榴弾二個、短刀一口を三菱銀行襲撃用武器とし中村義雄の手を経て奥田秀夫に交付し、其の他は同水交社に於て各組別に之を分配したり

斯くて昭和七年五月十五日第一組に属する三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山格之は各自制服を着用し、武器及「日本国民に檄す」と題する檄文を数百枚を携帯して陸軍士官候補生後藤映範、同八木春雄、同石関栄、同篠原市之助、同野村三郎と共に同日午後五時頃靖国神社境内に集合して三上卓、黒岩勇、後藤映範、八木春雄及石関栄の五名を表門組とし、山岸宏、村山格之、篠原市之助、及野村三郎の四名を裏門組として二隊に分れ、各隊自動車一台を使用し東京市麹町区永田町二丁目一番地内閣総理大臣官舎に向い、途中各自車内に於て武器を分配し、三上卓は拳銃一挺、手榴弾一個及短刀一口、黒岩勇は拳銃一挺、短刀一口、後藤映範は拳銃一挺、八木春雄及石関栄は各手榴弾一個を、山岸宏は手榴弾一個、短刀一口、村山格之は拳銃一挺、篠原市之助及野村三郎は各拳銃一挺、手榴弾一個を携帯し、表門組は同五時二十七分頃同官舎表門より自動車を正面玄関前迄乗入れしめ一同下車して直に同玄関より屋内に闖入し、予て偵察したるところに依り首相は平常同官舎日本館に起居するを知り其の通路を探索したるも見当らず、一同玄関広間に於て巡査部長村田嘉幸に出会いしより三上卓、黒岩勇は同人を脅迫して首相の許に案内せしめんとしたるも果さず、更に後藤映範は恰も同所に来りたる私服巡査に対し同様案内せしめんとしたるに之に応ぜずして玄関外に遁るるを見て其の背後より拳銃一弾を発射したるも命中せざりき、其の後三上卓は漸く日本館に通ずる廊下を見出し、同廊下板戸を蹴破りて一同を内部に導き日本館洋式客間に於て巡査田中五郎に対し首相の所在を糺したる処、其の態度反抗的なりしより之を憤り同人に対して拳銃一弾を放ち其の右胸部より膵臓を損傷して左側腹部に通ずる貫通銃創を負はしめ、因て同人をして同月二十六日同市赤坂区伝馬町一丁日二十番地前田外科病院に於て死亡するに至らしめたり、山岸宏等の裏門組は同官舎裏門附近に於て一同下車し、同門より邸内に進み日本館玄関より屋内に闖入して表門組と合したるが篠原市之助は同玄関車寄の前方に於て附近に居合せる制服巡査を威嚇する目的を以て銃口を斜上方に向け、拳銃一弾を発射して之を遁走せしめ、其の後同玄関内に止まり外部見張の任に当りしが須叟にして三上卓は遂に日本館食堂に於て首相犬養毅を発見したるより、大声を揚げて一同に其の旨を知らしめ 首相と共に十五畳敷の客間に至り同室に於て一同首相を取囲み二三問答の際、突然山岸宏は「問答無用射てッ」と叫び、黒岩勇は之に応じて首相の左前方より同人に向け第一弾を放ち、左下顎骨角の直上より頭蓋腔内に入る盲管銃創を負はしめ、三上卓も亦第二弾を放ち首相の右頠顓部耳殻前方より右眼外眥の上方に貫通する銃創を負はしめ、困て同人をして同月十六日午前二時三十五分同官舎内に於て出血に依り惹起せられたる脳圧に困る心臓及呼吸麻痺の為死亡するに至らしめたり、弾丸の命中したるを見るや山岸宏の引揚の声にて一同相続て日本館玄関より外庭に出でしが、巡査平山八十松が木太刀を揮って被告等に立向はんとしたるより、篠原市之助は拳銃を擬して「射つぞ」と脅迫し、黒岩勇は同人に向け一弾を放ちて右大腿貫通銃創を負はしめたるのみならず、村山格之も亦後方より同人に向け一弾を放ち左前脚貫通銃創を負はしめて一同首相官舎裏門を立出て、赤坂区溜地町に於て二台の自動車に分乗し、三上卓、山岸宏、後藤映範、石関栄、篠原市之助の一隊は午後五時五十分頃警視庁に到りたるも其の予期に反し庁外平穏にして襲撃の要なきを認め、之を中止して其の儘同市麹町区丸ノ内一丁目十番地東京憲兵隊に自首し、黒岩勇、村山格之、八木春雄、野村三郎の一隊は警視庁襲撃の目的を以て同五時五十分過同庁に到り、表玄関車寄に停車せしめて一同内部に闖入し、同庁二階一室の硝子房を蹴破る等の暴行を為し、再び自動車に同乗して上記憲兵隊正門に到り内部を窺ひたるも同志未だ自首したる形勢見えざりしを以て予定外襲撃場所協議の際偶々警視庁より自動車にて同人等を追跡し来りたる同庁警部補新堀虎吉を発見したるより黒岩勇は之に対し拳銃を擬し同警部補の遁れんとする後方より一弾を発射したるも命中せざりき、右協議に依り同市日本橋区本両替町三番地日本銀行襲撃を決定して同銀行に到り村山格之、野村三郎の両名下車し野村三郎は同銀行玄関に向ひ手榴弾一個を投擲して玄関前庭に於て炸烈せしめ、敷石、石段等を損傷して一同憲兵隊に自首したり



 第二組に属する古賀清志は制服を着用し武器及前記檄文数百枚を携帯して池松武志、陸軍士官候補生坂元兼一、同管勤、同西川武敏と共に同四時三十分頃同市芝区高輪泉岳寺境内に集合し、同寺門前茶店力亭事山口弥太郎方二階に於て古賀清志より行動要領を説明し、実行に際しては特に警視庁に重点を置き、内大臣官邸に於ては門外より邸内に手榴弾を投じて以て同邸を脅し、必ずしも内大臣牧野伸顕を殺害するの要なく直に警視庁に急行すべき旨を語りて武器を分配し、古賀清志及池松武志は各拳銃一挺、手榴弾一個、西川武敏は拳銃一挺、坂元兼一及管勤は各手榴弾一個、短刀一口を携帯して同亭を立出で、一同自動申に同乗して同五時二十七分頃同区三田台町一丁目五番地内大臣官舎正門に到り、同門前に自動車を停めて古賀晴志、池松武志の両名下車し清志は同門前より門内に向って手榴弾一個を投擲し、玄関前庭に於て之を炸烈せしめ板塀等を損傷し、池松武志も亦清志に続いて手榴弾一個を門内に向って投擲したるも不発に終り、次で清志は拳銃を擬して同邸に立番勤務中の巡査橋井亀一を射撃し、同人の左峰鳥嘴啄突起部に貫通銃創を負はしめ、再び自動車に乗じて沿道に檄文を撒布しつつ同五時四十分頃第三組に稍遅れて警視庁に到着したる処、其の予期に反して決戦を試むべき警官の集合あらざりしも、同庁表玄関に向い左側車道に於ける同玄関附近の地点に停車して清志を除く外全員下車し、上記計画に従ひ同所附近に於て坂元兼一及菅勤は同庁建物に向ひ手榴弾各一個を投擲せしが不発に終り、西川武敏及池松武志は自動車内なる古賀清志と共に孰れも表玄関に向って拳銃を発射し困て同玄関車寄に居合はせたる警視庁書記長坂弘一に対し、下顎部貫通銃創及右膝膕部盲管銃創を負はしめたるのみならず、読売新聞記者高橋巍に対し右下腿貫通銃創を負はしめ、斯くして一同自動車に乗じ同六時頃東京憲兵隊に自首したり



 第三組に属する中村義雄は制服を着用し、武器及前記檄文数百枚を携帯して陸軍士官候補生中島忠秋、同金清豊、同吉原政巳と共に同四時三十分新橋駅に集合し、同駅前に於て自動車に同乗したるも未だ決行時刻に達せざりしより時間を調節する為市内諸所を巡り、各自車内に於て武器を分配し中村義雄は拳銃一挺、手榴弾一個、金清豊は手榴弾一個、短刀一口、吉原政巳は拳銃一挺、中島忠秋は拳銃一挺、手榴弾一個を携帯した外、忠秋は其の所有に係る短刀一口を所持し、同五時三〇分頃同市麹町区内山下町一丁目一番地立憲政友会本部前に到り、義雄は下車して同本部東入口より構内に立入り、同玄関に向って手榴弾一個を投擲したるも、不発なりしより之を拾ひて再び段榔したるに之亦不発に終りしを以て、忠秋は直に下車し同玄関に向ひ手榴弾一個を投擲して之を炸裂せしめ正面露天演壇附近を損傷し、同五時四十分頃警視庁に赴きたる処、予期に反して決戦を試むべき警官の集合あらざりしも同庁表玄関前車道に停車し、義雄を除く外全員下車し上記計画に従い金清豊は菅勤の投じたる前示地点附近より建物に向って手榴弾一個を投擲せしが、誤って路傍の電柱に中り炸裂 子、電線等を損壊して一同再び自動車に乗じ、沿道に檄文を撒布しつつ同五時五十分頃東京憲兵隊に自首したり



 第四組奥田秀夫は中村義雄より配布を受けたる手榴弾二個を携へ、同市麹町区丸ノ内二丁目五番地の一、三菱銀行附近に赴き状況偵察の後同区有楽町一丁目二番地美松百貨店屋上に於て同五時三〇分頃警視庁方面に爆音の起るを聞き、其の後丸ノ内警察署員の出動するを見て愈軍部同志の決行したるを察知し、同七時三〇分頃再び同銀行に至り、其の西側道路上より同銀行構内に向ひ手榴弾一個を投榔したるも同銀行と三菱道場との中間路上に落下炸裂し、同銀行並に同道場の外壁等を損傷して逃走し、残余の手榴弾一個は友人中橋照夫の下宿なる東京府下杉並町高円寺五百十一番地堤次男方に隠匿したり
別働隊たる橘孝三郎の一派は前示計画に従ひ


一、大貫明幹は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる金槌、電線鋏各一挺を、高根沢与一は圀彦より配布せられたる短刀一口を携帯し、同七時十三分頃相共に同府北豊島郡尾久町下尾久二百番地鬼怒川水力電気株式会社東京変電所に到り、明幹は与一をして右鋏を用ひ同所西側貯水池附定の外柵鉄線を切断せしめたる上、電動喞室に侵入し、配電盤施設の冷却送水用電動喞筒第二号用三極開閉器を絶縁して右喞筒の運転を停止し、金槌を以て同第一号用三極開閉器を破壊し、更に与一をして屋外の主要なる変圧設備に向ひ、右手榴弾を投擲せしめんとしたるも同人は明幹が破壊用具を投棄して跳走を開始したるを見て俄かに恐怖心を生じ、右手榴弾を其の場に投棄て逃走し

  横須賀喜久雄は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個短刀一口及自ら購入したる手斧、電線鋏各一挺を携へ同七時過埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町三ツ和字畑田二千七百五十番地東京電燈株式会社鳩ヶ谷変電所に到り、電動喞筒室内に侵入し手斧を以て配電盤施設の三極開閉器及電動送水喞筒三台に附着せる水圧計各三個を損壊し、加ふるに古鋏を以て配電盤上起動用開閉器に通ずる配線八本を切断したるのみならず、右手榴弾を露天建造物に向ひ投擲して之を炸裂せしめ、困て主要変圧器中性点接地抵抗器基礎の一部を爆破して逃走し

一、塙五百枝は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる金槌一挺を携へ、同七時十五分頃上記尾久町上尾久二千番地東京電燈株式会社田端変電所に到り、電動喞筒室内に侵入し、配電盤施設の電動送水喞筒に通ずる三極開閉器二個を絶縁して右喞筒の運転を停止せしめ、加ふるに金槌を以て配電盤上電流計四個を破壊し、更に同室内電動機を爆破する目的を以て右手榴弾を投擲せんとしたる際、当直員に発見せられ其の意を果さずして逃走し

一、温水秀則は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる手斧一挺を携へて同七時十分頃同府豊多摩郡淀橋町角筈五百八十六番地東京電燈株式会社淀橋変電所に到り、飲用水用喞筒電動機小屋に侵入し手斧を以て電動機配線一本を切断したるのみならず、右手榴弾を冷却塔に向い投擲して之を炸裂せしめ、因て同塔東北側板囲の左上角を爆破して逃走し

一、矢吹正吾は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる金槌一挺を携へ、同七時十五分頃同府南葛飾郡小松川町字下平井二百六十五番地東京電燈株式会社亀戸変電所に到り、電動喞筒室内に侵入し配電盤施設の漉水及送水電動喞筒用三極開閉器四個を絶縁して同喞筒の運転を停止せしめたるのみならず、同室屋上に向ひ右手榴弾を投擲したるも不発に終りし儘逃走し

一、小室力也は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個及短刀一口を携へ、同六時五十分頃同府豊多摩郡戸塚町清水川百八十番地東京電燈株式会社目白変電所に到りたるも、襲撃に先ち恐怖心を生じて之を断念したり前記の如く別働隊の行動は単に変電所内設備の一部を破壊したるに止まり、東京全市は勿論其の一部をも暗黒ならしむるの効果を奏せざりしものなり

 而して川崎長光は拳銃一挺、同弾丸八発及短刀一口を林正三の手を経て後藤圀彦より受取り、同日午後七時頃西田税方に到り同家二階六畳の客間に於て同人に面会し、之が殺害の機を窺ひ、同七時三十分頃税に向って拳銃六発を発射し、困て右手掌貫通銃創、右前膊貫銃通創、右上膵盲管銃創、右前胸より右側胸部に亘る貫通銃創、及下腹部盲管銃創を負はしめて逃走したり

 被告中伊東亀城は当時入院中に係り、大庭春雄、林正義及塚野道雄は準備不充分の故を以て古賀清志、黒岩勇に対し決行の延期を求めたるも容れられず、為に孰れも右実行に参加せざりしものなり(陸軍側公訴状は略す)



この間被告一同起立、傍聴席酷も咳一つなく検察官の峻烈なる語調に耳を傾けること小一時間、次いで塚崎弁護人立って発言を求めて被告並びに弁護人を代表して裁判公開の大原則を主張し、十時二十分高須裁判長の指図によっていよいよ高法務官の事実審理に入る。

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5・15事件(一海軍士官の青春) 15

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月15日(火)10時46分59秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第3章  東京軍法会議


      1.公 判 (前)

 この年の四月、桜の侯、になんとはなしに頭に浮んだ三十一文字。

    奥山に一本桜咲き出でて
          人にも見せず只にほふなり

 自作のへなぶりを画仙紙に書く。今まで草書を少しばかり書いていたので、仮名も出来るだろうとやってはみたものの、なかなかもって容易ならず、これもまた数十枚書いたが一つとして思わしくない。仮名が一番むつかしいようだ。この歌は読んで字の如く、同じ桜の花でも何本か一所にあり、人間が観賞に容易な場所であれば時期ともなれば押すな押すなの大盛況であるが、人里遠く離れ小径さえなき幽静な奥山に、雑木の間にポツンと一本春来って花咲き、一人として観賞する人さえなく、その存在さえ世人が知らぬ桜木を思えば、なんともいえぬ優雅なものである。桜自身は本来人に見てもらうために咲くのでもなく、ただ天の時に会って自性の精を自ら発揮するのみ。人間としてもかくありたきものである。宣伝がましき行動、人に見せよがしの行いはいや味があるものである。

 静かに監房に独居すれば、自らいろいろの文句が出て来る。一例を挙げれば、至忠忘忠。至忠忘忠はこれまた説明の必要を要しないであろうが、敢て説明すれば世に忠義忠義と云々され、軍人勅諭の五ケ条の第一項は「軍人は忠節を尽すを本分とすべし」とある。真の忠は忠義を尽して己は忠を尽したと意識が残らないことである。すなわち忠自体になりきっておれば遊戯三昧である。無心であり、客観的に見れば忠義の行いに徹していることであり、すなわち孔子のいう己の欲するところに従って則を越えず、自由自在に手足を動かし行動すること自体が忠義にかなっていることである。元来忠とは中心といってもよいのである。問題は中にある。支那では未発の中、日本では天の御中主神、すなわち対立、陰陽未だ分れざる以前のところで純一無雑にして絶対一ともいってよいであろう。この境地に立脚しての行動は凡てこれ忠であろうし、こうせねばならぬと規制されたものでもなく、またかくすべきと力むことでもない。人間本来一に帰着せんと志向しているものであり、そこには忠を尽して何物か代償を求める気持がある筈がない。物理的には求心力である。中心より見れば遠心力である。すなわち統一と分散が完全調和されたところであり、物の存在の本来の道義もこんなふうにあるのではあるまいか。

 七月十八日、いよいよ公判も近づいて、法務官の取調べを受けた(島田清氏に非ず)。調室に行き、イキナリ態度が悪いとお目玉を喰う。親の年齢を聞かれ、父は何才、母は父に七ツ年下であり父の年から七ツを引いて母は何才と答えたが、故人であることにハット気づき、但し七年前に死にましたというと、死んだ者に年があるかと怒られた。なるほど死人に年なしだとは思うが、そうガミガミ怒らんでもよさそうなものだ。こんな裁判官に限って「天皇の御名の下に」とすぐ担ぎ出す。天皇の大仁慈も知らず傘にきるだけは大の得意である。何か一口いってやろうかと思ったが、大人げないような気がしてやめた。

 級友坂井君よりは法廷で雄弁を揮うのを期待していると手紙が来たが、生来演説をしたことはなし、さらに一切を天にまかした今日、何もいうことはないと返事を出す。
 林逸郎弁護士、浅水特別弁護人、志波少佐、島崎少佐来所。林弁護士は自分が予審で嘘をいったのは再挙を計るためであったと判って嬉しかったという。公判直前になり、刑務所では好意を以て監房のドアを開け放して、自由に出入り出来るようにしてくれ、無名氏よりは富有柿など沢山差入れがある。自分は書債があるので借金払いで一生懸命である。村山格之君は字の下書をしてくれと頼んでくる。本来村山君は上手という程ではないが、悪筆で仕方がないという程でもない。手本を書けというので、彼の自作の詩を画仙紙に書いて渡す。これとても一枚ではとても駄目なので何枚か書く。

 級友から差入れてもらった蟹の岳詰と梅干と喰い合せて中毒を起し、じんましんが出来、下痢をする。カルシュウム注射を病室で打ち、何か呑み薬を服用して全治まで数日を要し多忙を極める。

 一日山岸君が三〇番の監房に来り、黒岩君らは公判闘争をやると息巻いているが、貴様の意見はどうかという。「俺は公判で闘争なんかはしたくない。天の聖断に任せる積りで何もいいたくない」と答える。山岸君は同囚の級友(古賀、中村、山岸)を集めて懇談したいとのことで、中村君の房に集った。いろいろ意見があったが、一同林の意見に賛成と決った。ついては三上、黒岩両君に交渉方を依頼され、代表して黒岩の監房で両君に会い、先づ彼らの意見を聞いた。三上君は決行の趣旨を国民に普及し奮起を要望、以て公判を通じ時局を是正したいのだという。黒岩君は三上の意見に同調。そこで自分は吾々の行動は決起趣意書に書いてある通りであり、心ある者はこれで解るであろうし、少くとも自分は天を相手に実行した、行動の是非はどうであらうと心中は知る人ぞ知る、もし一人もなくとも天これを知る、特に宣伝がましいことは好むところに非ず、黙々と実行するところに吾々の値打があるので、こと終った後でああだったこうだった、とおしゃべりはあまりしたくない。三上君は貴様の気持はよくわかるが、俺は公判で闘争をやると頑張るので、自分は「俺らの気持が分ってそれでも貴様達がやるというなら、それもよかろう」と交渉を打切った。この経緯を同囚の級友に伝えて、自分の監房に帰った。

 公判廷に行く途中で着る着物がないので級友が作って来てくれ、法廷では軍服、その準備一切は級友の方でやってくれる。彼らも昼は軍務があり吾々の世話で大変であろう。看守長来訪、明日より公判が開かれるが公判中はニンニクを食うことを中止してもらいたいとの申込みであり、一同中止した。
 七月二十四日、この日いよいよ公判開始となる。被告一同白がすりに袴、編笠姿で監房を出れば、既に刑務所の広場に護送用自動車、警戒の憲兵隊、警察いずれも物々しく待っている。先頭は警部を隊長とする警戒中隊の自動車、次に横須賀憲兵分隊長等の制服憲兵の車、三番目に被告の護送自動車二台をはさみ二名の看守長が続き、この日の警戒陣はすこぶる物々しく、ピストル携行の特別隊車、神奈川県特高課長、横浜憲兵隊長等の私服憲兵、最稜にピストル姿の警官隊を詰め込んだトラックが後尾を警戒するという厳重さであり、沿道にはおびただしい群集が炎天下に立ち並び、あたかも天皇陛下の行幸ででもあるかの如きものものしさの中を、午前八時過ぎに軍法会議に到着した。到着と同時に海軍士官の白の軍服に着換え、各々部屋分けして控室に通され、偶然同室になったのが大庭春雄少尉である。

 午前九時被告入廷。ただし無帽無帯剣。被告席に二列横隊に着席。続いて塚崎弁護人を筆頭に清瀬、林、福田、稲本の五弁護人、朝田大尉、浅水中尉特別弁護人が着席。既に傍聴席は満員の盛況。しばらくして、高須大佐並びに判士大和田少佐、藤尾、木坂両大尉、補充判士大野大尉、高法務官、係り検察官、山本法務官入廷。天井には扇風器が音もなく回転している。法官の前には一万枚に上る調書が積まれている。ついで特別傍聴人が入廷。海軍側では堀田政務次官外その他内務、文部両省思想関係者、民間側では法学博士松波仁一郎氏、代議士浜田国松氏等の顔が見える。

 時に午前九時二十五分、この時高須裁判長は「これより公判を開始致します」と厳かに宣す。ここに歴史的公判はいよいよ開廷、満廷粛として炎熱を忘れ、裁判長の一言を聞き漏すまいと聞入る。まず裁判長は低声に左端の古賀君を招き、身許調べを行う。古賀君は低いが明瞭な語調で答える。裁判長は「次」と呼んで中村君を招き、同様公訴状記載順に従って各被告の氏名年齢を問う。最後に塚野君(大尉)に対する氏名身許調べが行われ、終って高須裁判長は「これより公訴状の陳述を願います」と検察官席に顔を向けた。山本検察官は法官席の最左端につと立上って、次の如き公訴状を冷厳に朗読した。

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5・15事件(一海軍士官の青春) 14

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月 8日(火)08時50分11秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第2章  獄中生活


      6.頭山翁

 五月十四日、志波少佐級友大上君が弁護士を引張って来た。自分が弁護士不必要と先に言ったためである。他の仲間は全部承知したので、君も弁護士を承知しろ、裁判は弁護士なくては成立しないし、また君一人弁護士不必要だといって別にすることは出来ないと強引に説得する。裁判というものはそんなものかとはじめて知り、あまり人に気をもましても悪く、気乗りせぬまま承知したが、必要ない気持には変化ない。ただ世話してくれる人達が気が済めばよいくらいの程度である。

 五月十七日、田崎、古賀(忠一)、鈴木、村上、沢田君ら出獄する(後で聞けば不起訴)。別に自分も出獄したいという気持も起らぬ。

 翌日獄中で作った詩の添削を郷里の先生に頼んでおいたのが返って来た。詩としての正式の形式に当てはめれば全部がこわれ、仕方なく意志発表として作者の意をこわさぬ程度の添削である。批評は概して賞めてあり、自分を志士として遇してあるのには恥かしい思いである。五人が出獄したお蔭で自分は今まで罰として一番小さい監房にいたが、許されて田崎君がいた房に転房になる。この室は広い。狭いところよりやはり広いのが気持よい。読書のためか視力が非常に弱くなっているので、検査してもらえば○・四である。眼鏡をすすめられて購入することにした。兵学校二年の時にはじめて乱視ということが判明し、それでも眼鏡をかけなくてもさはど不自由を感じなかったが、今度はどうしても眼鏡の厄介にならねばならぬことになってしまった。

 浦部君から手紙が来た。楽天命以尽忠誠は大賛成であり、先に藤田東湖の「正気の歌」を書いて送ったら涙を流して喜んだと書いてある。その他級友に特に世話になった者には「正気の歌」を書いて送る。

 郷里の父よりは、先に都々逸を書いて送ってから当分の間は手紙が来ず、あれで父もよく了解してくれたものと思い喜んでいたが、五月三十一日手紙が来た。それによると、吾々の事件が名前入りで発表になり、世人があまりよくいわぬとまた心配している。気の小さい苦労性の父にかかってはかなわん、今少し解ってくれたら、と愚痴が出て、父が厭になる。次弟忠義よりは朝鮮の出稼ぎ先から二十円送ってくれと無心をいって来る。看守に聞けば有金全部で二十円しかない。やむを得ず財布をはたいて送金する。これで今月の支払いも出来そうにない。翌日級友が来て十円と壜詰の海苔、ラッキョを差入れて行く。お蔭で眼鏡の支払いも出来る。財布をはたき出してしまったかと思うとまた入って来る。金というものは天下の廻り持ちとよくいったものだ。自分のものというものは本来何ものもない、本来何ものもないものを自分のものと思うところに間違いの根本源因がある。世の中はよく出来たものである。持ちつ持たれつ。しかしこの通りに全部が行けば極楽であろうが、その通りに行かぬところにいろいろと社会問題が起って来る。今自分の周囲は実に麗わしい。これも級友その他が吾々に同情しているからであり、人心離反すれば決してそううまく行くものではない。

 習字の稽古を始めてより今日まで画仙紙だけに書いたのが約四百枚くらいである。大津看守の話では、千枚くらい画仙紙に書かねば線も生きて来ず、紙にピタリと乗らない(調和が取れぬ)、という。今日この頃は主として毎日字書きで過す。一日に多い時は画仙紙に三、四十杖も書くことがある。紙屑製造で看守はやり場に困り、缶室に持って行って燃しているそうである。筆、墨、紙は殆んど級友の差入れ、その外本も振替用紙を沢山もらって、注文先に今度は誰に無心するかと決めて、その級友の名前で注文する。割当である。割当てられた級友は迷惑至極であろうが、そう迷惑とも思わず喜んで必ず金を払ってくれる。ありがたいものである。振替用紙使用の方法はいつの問にか仲間の囚人達が真似をしだした。頭山翁の書も羨しがって皆んな人を通じてお餅いして全部頂戴した。どうも悪智慧は自分が一番先に出すようである。林の奴は横着者だという。

 看守には仲間連中は時々無理をいって困らしていたが、一日看守長が自分の監房に来て、三〇番は少しも無理をいわずよくいうことを聞いてくれるから助かります、なかなか肝が出来ていると感心していた。あまりわがままはいわなかったが、適当にはやっていた。注意をされるとただそうですかと聞くだけである。某人は何か看守に対して癪にさわったとみえて、イキナリ看守をブンナグったことがある。看守なんかに文句をいっても始まらんと自分は思っていたに過ぎない。基本的には随所に主となる、どんな苦しい厭な環境にもその境の主人公となると心掛けていたことは確かである。

 六月十八日、犬上、浅水両級友、弁護士を同道来所し、面会をした。その弁護士は同姓の林逸郎氏である。浅水君が特別弁護人になるそうである。自分としてはもともと弁護士の必要を感じないし、特に級友に弁護に立ってもらう必要はさらにない。しかし事件仲間の他の級友も承知したそうであり、親切を無にするのもなんとやらというのが自分の偽らざる心境である。翌日、浅水君に手紙を書いた。弁護人になって頭を使う必要はない、法廷で一席やるなら「天の聖断に任す」と一言いって、他は何もいう必要はないと書き送る。

 毎日字書きで忙がしい。あらゆる法帖を手に入れ、ウルシマケの文鎮、翰墨談等、筆墨も支那におる仲間に注文、鳩居堂、清雅堂、博文堂等に仲間に無心して注文、贅沢の限りである。書道研究をしている大津看守が羨しがって、道具は一流の大家ですよと冷かす。紫檀の文鎮をつや出しのため鼻にこすり、翌日からカブレた。子供の頃よくハゼの木にカブレたが、ちょうど同じで、ウルシマケはどんどん悪化して夜も熟睡が出来ない。鼻からは汁が出る。房外運動も出来ぬ。数日後看守が「サハカニ」を取って来て潰してその汁をつけるとよいというので顔に塗った。熱が取れて気持はよいが、バケモノだと看守は見とれる。七月初旬で汗は出るし気持は悪い。漸く一週間かかって治る。 七月十一日付を以て休職となる。これで本給は手取十数円足らず、毎月の本代、筆墨紙代には到底不足。級友よりは字の注文がある。下手なペンキ屋と同じく一枚出来るためには、同じ字を画仙紙に五十枚ないし七十牧書かねばならず、相当に骨が折れる。これはと思うのを壁に貼ってみると見られたものではない。また書く。終りにはくたびれ諦めて、その中で一番よいと思うのを送る。相当の労働である。

 一日浅水君が面会に来た時に、「吾々は死刑にならなければ何年間かは監獄生活をするだろうし、この際大いに勉強したいと思う。ついては買いたい本が沢山あるしクラス会で面倒みてくれないか」。

 浅水「いくらでも買えよ、クラスで支払うから」

 と気持よく引受けてくれた。監房に帰って今浅水君に相談したら本はいくらでも買えということだからドンドン買えよ、と一同に連絡した。それから皆は買いたい本を勝手に連合クラス会支払いで本屋にどしどし注文した。何日かして浅水君がやって来て面会してみれば顔色を変えて、本代が皆の分で四千円になっておる。そんなに沢山では困るからやめてくれとの申込みである。

 林「貴様は四千円以下にしろとはいわなかったぞ。イクラでも買えといったので、今からも注文する積りだ」

 浅水「クラス会には金はない」

 林「クラス会に金がないとはいわせないぞ。俺はクラス会幹事をやったが、各クラスに一万円はある。三クラスで三万円はある筈だ」

 浅水「あれは据置貯金になっていて当分出せない」

 林「それではクラスの各員から二十円宛拠金としても三クラスで五千円は出来る。今さら注文したものを引込めろといったってそれは一寸出来ないぞ」

 浅水「貴様のように無茶をいって困るよ」

 林「そうか。それでは貴様と話しても無駄だ。もう頼まん」

 と別れた。

 監房に帰ってことの次第を山岸君に話し、二人で相談をして出て来た結論が、頭山翁に二千円、当時駐満海軍部司令官であった小林省三郎少将に二千円無心してこの結末をつけようということになり、両氏宛手紙を出した。五、六日したら志波国彬少佐が面会に来て呼び出された。

 志波「昨日林逸郎弁護士が来て、君達が金を頭山翁に無心をしたそうだが、ちょうど翁のところには千円しかなくて夜中に林弁護士のところに使いが来、千円届けられ、林弁護士はワシのところに来た。吾々先輩も居り、クラスの者も居るのに、貧乏して居られる頭山翁に無心することは、吾々の顔をつぶすことになる。この金は頭山翁に返してもらいたいと思って君達の了解を得に来た」

 林「クラス会の浅水に交渉してカクカクシカジカの次第でやむを得ず頭山翁に無心しました」。志波「それでは金は返してよいか」

 林「頭山翁は貧乏して居られるかどうか知りませんが、私の知っている(未だ直接お目に懸ったことはなく、ただ本を通じて知っている)頭山という人は、自分の手から一度金が離れた時は、人にやったという意識をなくする人です。吾々もらったと思わねばよい、天から授かったと思えばよし。何のコダワルところはありません」

 志波「貴様みたように世の中は行くもんじゃない。とにかくこの金は返してもらいたい」

 林「教官がそんなにいわれるなら気の済むようになさったがよいでしょう」

 といって別れた。その後数日、再び志波少佐と面会した。
 志波「頭山翁に会ってあの金をお返ししたら、頭山翁は連中は俺と同じ気持だと思って俺のところにいって来たのだろうし、返すのかといわれ、いよいよ辞去する時もまた返すのかといわれた」

 内心自分はそれ見たことか、頭山翁は返すとは不服だということであると思った。しかし志波少佐にはそれとなく「そうでしたか」と返事をして別れた。房に帰りこのことを山岸君に話して、俺の思った通り、頭山翁は金を返したのは不服らしいぞ、今一度手紙を翁のところに出そうということになり、山岸君が手紙を書いて出したところ数日後翁より返信あり、「どうしたら君達のところに直接金が届くか」との要旨であるので、「直接差入れをして頂きます」と再び書き送り、遂に千円の金は手に入れた。小林省三郎少将からは返事なく、副官の佐々木高信少佐より手紙が来て、何か断りの文面であった。(このことは自分が出獄して小林少将に会って少将自身の真意が分った。副官の勝手な処置であった)。遂に千円で本代を始末して他は取消しになってしまった。

 七月十五日、入獄以来二度目の盂蘭盆、亡母の祥月命日に当り、ちようど今年は七回忌である。房内には霊前に供える花も線香もなく、やむ得ず昼間特に坐禅をして供養する。

 公判開始は旬日に迫り、方々より字の注文があり、果して十日間くらいで引受けた字が書き上るやら甚だ疑問である。一枚出来上るためには数十枚の紙屑製造をするし、向う鉢巻で頑張らねば出来上りそうにない。某日の如きは画箋紙に百五十枚も書いたことがある。連日字書きで追いかけられているくらいで、これでは楽しみにならず借金払いに苦労するようなものである。その代り一日は瞬く間に去り、床にある時間が惜しいくらいであるが、規則通りに寝に就かねばならぬ不自由さを感ずる。

 級友浅水君来所、吾々の特別弁護人となり横須賀鎮守府附になった由。青年士官としては艦隊訓練に精を出す時に、病気上りか何か懲罰的処置でもなければならぬ鎮守府附になって気の毒である。しかし本人も進んでやるというし、当局もそうさせるのであれば、気の済むようにさしておく外はない。

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5・15事件(一海軍士官の青春) 13

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月 8日(火)08時09分9秒
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  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第2章  獄中生活


      5.大西郷(後)

 二月十日、明日の紀元節を期して一週間の断食を行うべく、その準備のため今夕の食事をやめた。看守長来房し、絶食は刑務所では重大問題であるから、所長不在中先任者として電報で出張先の所長に報告し意見を聞かねばならぬし、迷惑をかけるからやめてくれとのことで、致し方なく思いとどまる。せめて獄中にある身としてなお一層人間としての修練を積みたいというために外ならぬ。飽食暖衣は決して心身を練らんとする者の執るべきことではない。級友に差入れしてもらい、国の厄介になっている自分としては、出来る最大限に不自由な目にあって心を練る外、今の自分としてはやることがない。
 十一目、建国以来二千五百九十三年、その間国の様相は幾変転、右にふれ左にふれ、あるいは早くあるいは遅く、あるいは乱れあるいは治り、流転し来りたるも、日本としての生命の流れは今日まで一貫して来た。上に一天万乗の大君を仰いで、この国の命は今吾々万民が受継いでいるはずである。

 有馬中佐に先に頭山満翁の書をお願いしておいたので返事が来た。書は人を介して翁に依頼したとのこと、その手紙に「君達は今度の事件の真相を級友後進に話して、彼らをして軍人の本分に邁進せしむる責任あり」と。軍人が共にその本分に邁進してもらえば結構至極である。政界財界各界然りである。いずれも本分本分というが、言葉だけではその通りであるが、その実一向に伴わないものが多いから、吾々が事件を起さざるを得なくなるのである。本分を自覚すれば自分の栄達権勢欲はなくなるはずであろう。

 三月五日、いろいろと吾々のことを心配し世話をしてくれている級友達が面会に来た。依頼をしておいた差入物を持って来てくれた。その時、公判のために弁護士の算段をしたからといっていたが、自分は弁護士の必要を感じない。去年の十一月頃までの心境であれば弁護士も必要であったが、一切を捨てた今日の自分にとってはその必要さらにない。凡ては天に任しているのだと答える。級友より敷布団まで差入れてくれた。ありがたいもので、入獄後初めて敷布団を敷いて寝た。温い。

 今日この頃の生活は習字の練習が主であり、看守は時折り見ては字が巧くなったと賞める。悪筆で有名だった自分が人に字が巧いと賞められたのは生れて初めてである。乞食の子も三年すれば三つになるというから、怠らず励めば字らしく書けるものだとつくづく思う。

 郷里の父からは一週間おきくらいに愚痴ばかりの悔んだ手紙が来る。他の同僚には家から差入れが来ている。自分は反対になけなしの金を時折父に送っている。まるで反対である。これが母であるならば自分の着ている着物でも売り払って差入くらいしてくれるだろう。いわんや愚痴をこぼす筈はない。激励をして「正、頑張れ。どんなに若しかろうと負けては駄目だ。正しい気持で押し通せ」といって来るに相違ない。神風連の血を享けた女であり、苦労に負けず死ぬまで丹前を着て寝たこともなく、なけなしの羽織を真冬の寒さにふるえている隣人に脱いでやり、笑って田植の日雇人夫になった慈母である。それに引換え、父は何だ。武士の血を享けながら、しかも男である。吾が父ながら情けない。速成都々逸を送る。

 一、金も命も名誉もすてて、賊の頭の西郷どん
 二、平野国臣、勤王志士も、親に背いた不孝者
 三、親に背いて妻子を捨てた、釈迦は名代の乞食坊主
 四、年は取っても餓え死にゃしても、昔忘れぬ武士気質

 従姉妙子は今妹達を親類に預け、天草で女教員をやっているが、自分のために裁判所に何回も呼出されている。恐らく従姉のことであれば口を箴して白状してないのであろう。そのために免職にでもなったら大変だ。自分は何もかも捨てたから全部正直に白状して一切の疑いを解いてくれといい送る。

 三月二十一日、春季皇霊祭。久し振りに蓄音器を聞く。近頃また背柱が少々痛む。例のカリエスのところだ。カリエス治療用枕の使用を願い出て、夜寝る時に背柱の痛むところの下に敷く。級友よりテーブルの差入れがあった。これは坐って字を書き本を読むのに便利である。佐世保の級友に手紙を出し、自分の海軍時代の一切のものを形見分けの積りで、世話になった級友その他に指名分配を頼んだ。分配しても彼にも某人にもとなると品物が不足するので、什方なく足らざるところは精神籠めて自分の悪筆を送ることにした。その後級友よりはいちいち分配せんでもよい、誰々に形見をやるとかいうようなさような情を離れて大観しろといって来る。なるほど形見分けなんか私情である。これは一本参った。そうだ、一切焼却した方が面倒臭くなくてよいと思って焼却方の返事を出す。東京地方裁判所予審判事の取調べを受け、数日後海軍法務局長の取調べがあり、何れも何の滞ることもなく済む。

 大塩中斎の『洗心洞剳記』『東洋政治哲学』『陽明学精義』等を読む。王陽明は迫害、病苦、波瀾の中に打成した人間であり、真直ぐに一本道を歩いた男ではない。いく度か迷い、いく度か悟り、練りに練った男で、事実上錬磨の言葉が陽明の口より出るのはもっとも至極であり、彼こそ当って砕けた人間である。自分の今日までを考えてみると、決して順調ではない。しかし陽明に比すれば取るに足らぬ。偉人傑士というものは概ねその一生は順調だったものはないようである。もっとも順調に行った者は大概独活の大木的ぼんやり者が多い。これを以て観れば、境遇が人間を生むともいってもよい。山中鹿之助は「吾に七難八苦を授け給え」と神に祈ったというから、何糞といかなる環境にも負けず志すところに勇往すれば、いつの日かは高嶺の月を見るであろう。

 四月七日、悪質の淋病も既に根治し、今朝は一番先に入浴を許された。新しい風呂に入ることは約一年振りである。気持甚だ爽快。昨夜磨っておいた墨で画仙紙に、藤田東湖の「正気の歌」を三十枚書いた。今までの中で一番出来栄えがよい。湯上りの爽快な気持はそのまま書く字に移る。翌九日、有馬中佐の来訪を受け、先にお願いしておいた頭山満翁の書を表装までして持参される。「楽天命以尽忠誠」と草書で雄渾に一気に書いてある。楽天命さすがは頭山翁だ、普通ならば順天命と書くところであろうが楽しむとある。ここに頭山翁の翁らしい深さがあるように思える。

 自分の今の気持は天命を楽しむというところに何んだか近いような気もする。一日一日の獄舎の生活が充実し、一刻も無駄がない。読書をし、習字をやり、実に一日が早い。今後もし動揺するが如きことある時は、この書を眺めて自分を打ちのめそう。看守長にこの軸を房内に入れることを願い出たが不許可という。折角書いてもらい大いに気に入った文句でもあり、毎日頭山翁と一つの室にいたいとさらに願い出て、漸く昼間だけ房内におくことを許され、房内の高い窓の金網に結びつけて床代りにする。先に福村君に西郷南洲翁の肖像画を依頼しておいたが、これは結局不許可になった。頭山翁の軸があるからそれで諦めた。

 一日級友清水寿録君来訪。いつもながら彼は恭謙己を持している。兵学校一年生の時に同じ分隊に起居をともにして、自分が人並の生徒生活より変ったことをやっていたので、それ以来何か自分に関心を抱き、今日は自分に向って導いてくれという。自分としては人を導くことは出来ない、互いに勉強しょうと返事をする。浦部君より来信、彼は道を求めて苦しんでいる心境をたたいて来た。自分は今ポカンとしている。呑気である。生きても死んでもよいと思っているから何も気にならぬ。頭山翁から書いてもらった「楽天命以尽忠誠」と七字を書き、この意味をよく味ったらいかんと返事を出す。

 四月二十六日、今日からまた予審官の取調べが始まる。いよいよ公判前の予審の整備のためである。予審官対被告ということはさらにない。和やかなものである。いつしか雑談になり、島田氏曰く、「明治十年の戦争にもし西郷に代って大久保があの立場にあったらどうしたであろうか」。林「大久保ならば大義名分を説いて極力押えんとしたであろうが、押えることは出来なかったろう。西郷は順逆を通り越して黙々と一切を捨て、ただ乗って行った。政治家大久保と宗教的西郷の相違がある」。そうだなと島田氏がうなづく。

 次弟忠義は朝鮮に就職出来るかもしれぬといって来た。今まで老父の厄介になり、親類からもルンペンしてウルサがられていたが、自立出来るようになってくれればありがたいことであり、朝鮮までの旅費でも送ってやりたいが、そんな金はない。有金全部十円送金する。四月二十九日の天長節には佳節を祝って一円の御馳走を頂こうと願い出ていたが、弟に送金して無一文、馳走はやめたがその意義はなお深くなった。

 四月二十日夜、予審一切完備、公判は八月頃であろうとのこと。島田氏ともこれで当分お別れである。なんだか淋しいような気がする。

 習字の方は大分こって来た。支那日本の書の大家の法帖を手に入れたくなって、王義之、王献之、顔真卿、懐素、蘇東坡、弘法大師等その他手当り次第に買い集めた。法帖だけでも数十冊になる。落款印まで注文した。雅号は天空とする。印は清水君と浦部君に形見分けをせんと先に手紙を出した時に、字を書いてくれとのことであったので、この二人のために字は下手糞であるが格好だけでも整えて送りたい。その中に看守二人がどうしても字を書いてくれと何遍もいうので、仕方なく一生懸命に「鬼手仏心」の扁額を四十枚書いて、その中の二枚を渡す。元来字は下手糞で有名、草書が読めぬために練習した字が、オベッカにも上手と賞めてくれる。自分の字を扁額にするという物好きもいる。外にも二三希望者がある。世の中は広いものである。どこに自分の字によいところがあるのか分らぬ。

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5・15事件(一海軍士官の青春) 12

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月 7日(月)11時01分48秒
返信・引用 編集済
  5・15事件(一海軍士官の青春)  林正義 著

   第2章  獄中生活


      5.大西郷(前)

 翌十二月八日、前日までで入獄以来の嘘を全部吐き出し、今日は一日ガッカリしてポカンとただ雑誌を見て一日を過す。自分はやはり弱い人間である。

 次弟忠義に手紙を出す。故郷が恋しくなったからである。一切を捨てた積りでも、親兄弟は忘れることが出来ない。故郷を思う毎に亡くなった母のことを思い、母の慈愛が身に珍みる。オカーサン、と母の懐に抱かれたい。弱い人間が強い人間の振りをせんでもよい。この振ることが一番悪、ありのままが一番よく、真裸体が一番楽である。

 十二月十九日晴、真白く霜が降りて、冬らしくなった。昨年の今頃は寒いとは思わなかった。今年は寒い。去年も寒さに変りはなかろうが、去年はブルジョアだ。今年は囚人。獄中の夏も暑いあついで過ぎ去って行った。蚊にくわれ眠れなかったことも幾晩かあったが、その蚊も暑い夏も、今は過去のこと、今から思えば何んのこともない。そんなことがあったかなーくらいのことである。この寒い冬もすぎてしまえば暑い夏と同様である。考え来たれば過去は影法師、未来は夢、ただ現在ただ今の一瞬あるのみである。この一瞬をいかに生きるかが問題である。ことは簡単であるが、なかなか一瞬を真に生き通すことは容易でない。自分は常に環境に征服されている。臨済禅師は「随処に主となる。これを無畏の真人」といった。よく境遇の主となるというが、この言葉はあまりに容易に使われている。世にはただ外面のみ見る皮相の見解が多い。しこうして直に宣伝をやり、ワイワイ騒ぎ立てる。その御本尊はと見れば、さほどでもない。この世の中は欺瞞ばかりであり、正体を赤裸々に現わしているものは殆んどないくらいである。多くは醜を覆うに美を以てし、化粧をしている。この化粧の仕方の功拙を以て、その人の能不能を決めているかに見える。世の中には芝居の役者が多過ぎはせぬであろうか。

 次弟忠義より手紙来る。兄の病気はよくなったらしく、朝鮮にいる叔父が忠義離縁問題を持出しているらしい(次弟は叔父の懇望で十一才にて叔父の養子となる)。忠義離縁のために裁判をやると叔父がいい出しているそうである。この間題の根本は金である。この些細な金のために裁判するとは笑止千万だ。財欲のために肉親相争うということは世に往々あることではあるが、何んとも言語に絶する。父と叔父とは兄弟ではないか。弟とは叔父甥の間柄ではないか。それを裁判とは嘆わしい。忠義は叔父の財産は欲しくないという。ただ彼らは馬鹿にされたくないと頑張り、離縁の理由を明かにしたいと言っている。もっともな話でもある。自分はその理由のいかんを問わず、離縁してもらった方がよいと思う。先方の、養子たる次弟に財産を渡したくない意志が明瞭であれば、この際イザコザいわずに先方のいうままに離縁してもらえと返事を出す。財宝は実に調法な大切なものであり、必要なものであるが、財宝に捉われては自己を毒し、破滅に導く。

 自分がテロを肯定したのは生死一如という観点からであり、死に切ったところに真の生ありというところからであったが、いよいよ五月十五日決行となり、陸軍起たずと知り、陸軍起たずば失敗に終る、いかにしても陸軍を起たしたく、一週間の延期を要求(九州の陸軍には内諾を取る)、大庭君を上京せしめて最後まで自分の意見を通さんと決心し、十四日正式上京可能と分り、同君に最後まで延期を強固に主張せよ、しかしながら、万止むを得ざる時は、仲間とともに失敗と知りながらも死なんと決心せしことを、深く考うれば、そこに自分の矛盾を発見した。生死一如より出発しながらいよいよとなって死を決心せしことは、生死一如に非ず、生死二元に対立せることを見出し、その根拠は根本的に嘘である。かく自らを知ってみれば、一体自分は何の根拠に於いてテロ行為を肯定せしやら、甚だ以て疑問であることに気が付いた。ただそこにあるものは力んでいただけのことではないか。ハッタリではないか。根拠薄弱なままに事件前より嘘でかためて闘って来たのだ。今や予審に於いても最後に一切を捨てた。闘争もなくなった。一体自分は何をなして来たのであろうか。わけがわからん。国家革新の大目的は肯定出来るも、自分の国家革新の重点は人間の本質の究明にあった筈だ。今まで事件前より当局と闘い、予審を通じて嘘をいって仲間とともに早く出獄し再挙を計らんとしてあらん限りの力を絞って闘って来たが、一切を投げ出した今日は、今までの闘争が闘争であっただけに空虚感の強きものがある。相手がある間は吾があり、そこに闘争があり、自己の存在もあり、強さも出て来るが、相手を失った今日は、自己の存在さえ不明確になって来た。正に虚脱状態である。生きているか死んでいるか、坐っているのか、立っているのかさえ判然としなくなって来た。正に神経衰弱の極度なものであろうか。

 仕方なくただ坐禅を組む。一日二日と数日を経過した。ある一日、毎日やる坐禅中にスッキリした。一切の今までのモヤモヤが一時に吹き飛んでしまった。眼前が豁然と開けたような気がした。天空海関である。何らの滞るものなし。世の中が一時にパッと開けた。この時程心底から喜びを感じたことは今まではない。兵学校に入校してもの心つき、生だ死だと自分なりに苦しんで来た。道を求めて来た。天だ、仏だ、神だと、生命の本質を探し求めて来た。さようなものがちょうど煙管がつまったように胸につかえていたが、スポッと通った。この時の気持を自分なりに表現すれば、「飯を喰って糞をたれる」ただそれだけである。自分はこの世に生を受けて満二十七年間飯を喰い糞をたれながら、ここに気がつかなかった馬鹿者であった。春になれば花が咲き、秋になれば木葉が散る。柳は縁、花は紅、とはこのことであろう。頭は上にあり足は下である。朝には太陽が東より出、夕には西に沈む。自然そのままである。今までかような言葉は知っていたが、その味が分らなかったのだ。体中が頭のテッペンから足のツマ先まで生き生きして来た。これも監獄に入ったお蔭であり、自分にとって監獄は一大道場であったのだ。今まで悩んだ甲斐があったと、独り手の舞い足の踏むところを知らぬ喜悦を覚えた。

 父から手紙が来た。この手紙は自分の入獄を知ってからの初めてのものであり、見れば非常に落胆している。七十年の生涯はいかに林家を再興するかにあった。オレは十三の時より寺小屋をやめさせられて家事の手伝いをし、横井小楠が(祖父と友人)東京に遊学せしめ手許においてやると祖父を説いたのも祖父は断わり、農具鍛冶兼水飲み百姓で苦労して来た、過去何十年の苦労は水の泡である、しかも一番頼りにしたお前は罪人となった、何の報いるところがあるかと一クサリ愚痴を並べてある。老い先き短き身の安き心だになく、無理からぬことでもあるが、吾が父としては実に情けない。金十円送金する。

 中学校時代の同級生(兵学校は二期上)福村君面会に来る。休暇で今日から帰省するが、何か実家に伝言はないかという。別にない、元気だと伝えてもらいたいと答える。福村君とは(昭和七年上海事件に出征時)佐世保の万松樓で別杯を上げたが、再び相見る時は自分は獄舎の人、死を決して出征した福村君は今日元気一杯の青年士官である。明日のこと測り知るべからざる浮世である。正に有為転変は世のならい。

 昭和七年もいよいよ年末になった。先輩知友に年賀状を書く。「大西郷全集」、「頭山満翁の真面目」を読む。頭山という男は大西郷がいったように命も、金も名誉もいらぬ大山の如くどっしり天下の大道を潤歩している。この翁の大成した根本はいつでも命を投げ出しているところにある。立雲と号していたが、その由来を本人は「フリマラで雲の上に立っているというところだ」と説明している。この雅号の由来が頭山翁そのものである。大石内蔵助を読む。級友、清水君の手紙に、本を読んで見るが一つもビリット来るものはないとあるが、本は文句ばかり読んでも一つも「ビリッ」とするものではない。同じ文句でもその著者のいかんによって生きもし死にもする。自分の体験を通して読めば「ビリッ」とするものがある。英雄のなせし跡を自己の体験及び現在の心境に照して見れば、読書も大いにためになり、吾が糧になる。さもなければ単なる記憶にとどまり、得るところ殆んどなし。

 昭和八年一月一日晴天。癸茜元旦、獄舎の初めての元旦である。それでも雑煮を祝ってくれた。友人から年賀状も来た。元旦日和で正月気分は十分である。日本の国政も今日の如き麗かな日を待っている筈だ。年賀状の返事を出す。三宅俊枝には抱え芸者の年期は明けて自前になったことであろうし、次の歌を送る。

   年は明け子鳥は籠を出でし身と
          思えば楽し初春の空

 級友宮本君がわざわざ呉より上京して横須賀までやって来て面会に来てくれた。友情の切なるものを思う。一人の級友吉富忠治君が胸を悪くして郷里宇部に静養中を官本君が見舞っ
たとのことである。聞けば本人はどっしり構えているということである。もともと純情そのもので、自分とは候補生時代は特に仲がよく頑張り屋の男であった。病気して彼も心境が進んだことであろう。必ずや丈夫になって復職するに相違ない。読了せし数冊の本を送ることにした。

 この頃は毎日手習いと読書であり、大津という看守に聞けば(この看守数年来字の稽古をしている男)、画箋紙に千枚くらい書かねば字の「セン」が出て来ない、「セン」が出て生きて来なければ駄目だという。いろいろの字の講釈を聞き、得るところが多い。一日画箋紙に正気歌を書いたのを見て、これは途中で気が変っていると酷評を下す。その通りである。書いている途中で一寸フラッと気が散ったことを思い出す。自分にとってよき手習いの先生である。本を読んで夢窓国師の詩を見出した。
   青山幾度変黄山
   浮世紛紜総不干
   眠裏有塵三界窄
   心頭無事一狀寛      (※01)

 世俗の変転に拘わるところなければスヤスヤと安眠出来るものである。なるほどその通りである。

 大西郷全集を二回読んで、今回は新らしい西郷南洲を発見した。兵学校以来の西郷は英雄豪傑的偉大さであったが、西郷が晩年官を辞して故山に帰り、自然を友にして過去を顧み、一日所懐を詩に賦して日く、

    雁過南窓晩  魂銷蟋蟀吟
    在獄知天意  居官失道心
    秋声随雨到  鬢影与霜侵
    独会平生事  蕭然酒数斟      (※02)

 この詩を読んでハットを胸を打つ。その反省の強さである。「獄に在っては天意を知り、官に居て道心を失う」この一句である。西郷は明治維新元勲の中でも私心なきを以って一頭地を抜き、誠の人として重きをなしていた。その西郷が「官にあっては道心を失った、野に下って天真を知った」と自分をどこまでも冷く鞭うち、天に対して戦々競々として恐れている。天を敬し、天に反することを極度に怖れるこの真面目さ、この気の小ささ、この臆病さ、しこうして他人が気もつかぬ知りもせぬ自分のボロを天下に公表するその勇気。西郷がいった「天を相手とし人を相手にせず」正にその通りに日常茶飯事を生き抜いている西郷の真価は天に対しての臆病さにあった。蟻のキン玉の如く気の小さい人である。今までは大きい人とばかり思っていたが、今はじめて小さい西郷を発見した。これが西郷だ。これであったればこそあの大事が出来たのだ。「強いばかりが男じゃない」と下世話にいう。真の強さは真の弱きところにある。人間の世界は強いだけでも押し切れる。誤魔化しが効き、嘘が通るからである。弱さを伴わない強さは折れる可能性がある。途端に豪傑は厭になって釆たし、豪傑の足らざることを発見した。同時に西郷が何んだか尊くまた心から親しみを覚えた。南洲翁の字を手本に手習いをしてみたが、似ても似つかぬ字が出来る。偽南洲である。字は自己以上に出ることは出来ない。自分が南洲の心境になり切ってしまえば、字の形こそ違え南洲と同様の字が書けよう。近頃は手習いに趣味を覚える。字そのものより、字に表われた気持ちであり、結局字も人間である。同じ人間でも朝と夕方とは字が違い、風呂に入って気分が清々した時は、何んだか下手糞は下手糞なりに気持よく書ける。

 漢詩作法要義を買って今まで折にふれ作った詩を平灰を整えて見る。
  (未だ闘争を離れ得ざる時のもの)
   人生紛紜黒白評
   毀誉畢竟一風塵
   巍然雲外芙蓉嶺
   天爵清高縄俗唇      (※03)
  (過去の一切のわだかまりがスッキリした後のもの)
一、 人生尊赤血
   百識乱真明
   一剣依天断
   心田開豁清
二、 載断私心独浩然
   行雲流水是真人
   覚知三十年来夢
   大道長安即一身
三、 世塵消去赤泉円 (赤泉円──心は平静デアル)
   一枕一衣任自然
   生死本来非二者
   夕陽落地月昇天      (※04)

 海舟が南洲に相会して江戸城を明け渡しの談判をするに当って、海舟はもし官軍が自分の要求を入れなければ徳川慶喜をフランスの軍艦に逃がし、江戸城を焼き払って一戦交える腹を以て対したが、西郷に会って話している問に西郷の一点曇りなき心境にふれて、この男には自分の腹を見抜かれるばかりと悟って自分の策を捨て、互いに赤心を吐露し合い、大義名分を正して談判を纏めた。この時の両雄対座の呼吸を詩によって見た。

  題南海両雄江戸城開渡之図
    南竜呑却海中劔
    赤血煌々万策空
    大義凛然談笑裡
    同胞劔戟浴皇風

 「木戸松菊伝」を読む。木戸孝允は維新志士時代桂小五郎として長州を率い、映画等にもよく出て来るように、その活躍振りは常人の及ばぎるものがある。しかしながら、孝允とても人間である。大分神経質で、線が大きいという方ではなかったように思われる。石橋を敲いて渡る大久保の現実的堅実さと意志の強さには対立し、大久保と雖も理想家肌の木戸には一目おいていたようであり、木戸の意見には、意見としては反対するものはなく、ただ時の政府の大官は木戸の意見に従わず、大久保の現実性に引かれ、大久保に加担した。そこに情実が些かあったようにも見えるが、何れにしろ理想家木戸と現実家大久保は遂に対立して、木戸は不平を抱いて政府を去り、伊藤、大隈連中は大久保を押し立てて勢力を張った。個人的感情が幾分かは国政に影響を及ぼし、どこかに「私」というものがあったことはいなめない。西郷去り、木戸去って、明治初期の天下は大久保に帰した。いつの世にもある段階を踏むまですなわち同一目標を倒すまでは互いに行をともにするが、その段階を経て後は互いに意見を異にし、かつての同志も遂には袂を分つことになる。権力を得るまでと権力を得て後とに自ら相違があるのは、古今東西の歴史が証明しているがごとく、これは止むを得ぬことのように思われるが、なんとかして同志相食むが如きことのないようにならぬものであろうか。やはり人間の眼のつけどころが違い、人間的練磨の相違によって致し方ないのかもしれぬし、またその人の性格の相違もあるのであろう。




______________________________________________________________
※01
  青山幾度変黄山   青山幾度(せいざんいくたび)か黄山(こうざん)に変(へん)ず
  浮世紛紜総不干   浮世(ふせい)の紛紜(ふんぷん)総(そう)に干(あず)からず
  眼裏有塵三界窄   眼裏(がんり)に塵(ちり)有(あ)れば三界(さんがい)窄(すぼ)く
  心頭無事一床寛   心頭無事(しんとうぶじ)なれば一床寛(いっしょうひろ)し

※02
雁過南窓晩  魂銷蟋蟀吟
在獄知天意  居官失道心
秋声随雨到  鬢影与霜侵
独会平生事  蕭然酒数斟

雁(がん) 南窓(なんそう)を過(す)ぐる晩(ばん)
魂(こん)は銷(しょう)す 蟋蟀(しつしゅつ)の吟(ぎん)
獄(ごく)に在(あ)りて天(てん)意(い)を知(し)り
官(かん)に居(お)りて道心(どうしん)を失う
秋声(しゅうせい) 雨(あめ)に随(したが)って到(い)り
鬢影(びんえい) 霜(しも)の与(ため)に侵(おか) さる
独(ひと)り会(かい)す 平生(へいぜい)の事(こと)
蕭然(しょうぜん)として 酒(さけ)数々(しばしば)斟(く)む

雁が飛び過ぎて行くのが南の窓から眺められる夜
こおろぎの鳴く声を聞いていると、心が沈みこんでゆく。
かって罪人となって囚われていた時、天が自分に与えたこの世での使命をはっきりと自覚したものだった。
ところが、その後、役人として官位についていた時には、心ならずも良心に背くようなことさえ言わねばならなかった。
一雨ごとに秋が近づいてくる。わたしの鬢も霜降るように白くなってゆく。
今、往時のことをひとり静かに見つめることができるようになって、さびしく酒を酌むばかりだ。


※  -(原文では前編後編の区別はない。このサイトの1回の投稿量に入りきらない為に管理人が前後篇に分けた次第である。-

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